グローバル人材
グローバル人材の育成を・・・なんてことが叫ばれている現在、大学ではそういった人材の育成に力を注いでいる。以前、本学でも職員のグローバル化という話が出たことがあるが、その際に調査されたのはTOEICやTOEFL等が何点以上ということだけだった。
私は英語圏以外への留学をし、流暢ではないにしろ母国語以外を扱え、その文化も理解している(つもり)のだが、上記ではグローバル人材ではない。
英語が最重要視されることは英語が公用語となっている以上は仕方ない。多くの文献は英語で書かれ、論文等も英語で書かれていないと引用すらされづらい。しかし、"英語"だけがグローバルなのだろうか?
語学力ばかりに目がいくのは測りやすい指標であるため致し方ないのかもしれない。しかし、そうではないもの、例えば異文化への理解、配慮等にこそ目を向けるべきではないか。礼儀を重んじる我々日本人、目に見えづらいこと、測りづらいことにこそ価値を見出し、それが評価されてきたのではないか。そういうものこそ大事にしたいと私は考える。
以前からこういったことを考えていたところ、以下のブログを拝見し思い出して記載した次第。
グローバル人材育成を抽象的に考える人は英語教育を重視せず、具体的に考える人は英語教育に焦点化する - こにしき(言葉、日本社会、教育)
大学ランキングについて
世界大学ランキングというものがある。あまりこうしたものは信用していないのだが、臨時増刊・別冊週刊東洋経済(以下)が気になって大学の図書館で読んでみた。
すると、無視してもいられなくなりそうな気がした。
Twitterでも一部つぶやいたが、上記を読んで気になったのは次の3点。
馳大臣の「寄付文化の醸成」
日本学術会議大西会長「教授が自分の弟子を後継者にすることがある」
「海外の大学に提携を申し入れたが、世界ランキングに入っていないことを理由に断られた」(有力私大)
寄付文化の醸成については、寄付が税額控除となるような措置が実施されるとのことで、今後は増えてくることが予想される。ただし、日本はお金のない国であるから、税金を取れるところから取らなければならないだろう(軽自動車税や酒税のように)。寄付もそうして廃れてしまうのではないかと懸念した。そうならないよう期待したい。
次の「教授が自分の弟子を後継者にすることがある」は、残念ながらそうした実情を私も見てきた。実力ではなく縁故が教員でも大事だったりする。こうした採用における不条理はなんとかしてもらいたいものだ。実力のあるものが採用される。そうした世界であってほしい。こういったものって落ちた人が請求を行って、あまりにも不条理だった場合は訴えたりもできるんではないかとすら思う。採用された人っていうのは誰だかわかるわけで、今時論文数なんて検索でヒットするわけで、差がありすぎた場合はおかしいんでは?って思うのではないか(研究者じゃないので勝手な推測で言っていますが)。
さて、本題である最後の世界ランキングについての記載。このコメントは、ランキングに入っていないことで協定すら結べなかったということであろう。ランキングがそこまでの力を持ってきたのかということを非常に残念に思う。もちろん、一定程度の指標であり、大学があぐらをかいていていいというわけではないが、あまりにもこれに左右され過ぎではと思うのだ。
以前ベネッセが日本版のランキングを作成するとの発表を行った。
海外の学生にとって見れば、どの大学がどの程度のレベルなのか、教育力等はどうなのかということは知りたいものではあろう。一方で、こうした営利企業、特に教育に深く関わり大学とも提携しているような企業がランキングを作成するということに違和感を覚える。
それなりの必要性は認識するが、どうにも腑に落ちない。
国ごとのランキングは、アメリカはもちろん、イギリス、オーストラリアには存在するようだが、それ以外はどうなのだろうか?アングロサクソン系だけ?
学費の負担
以前にも書いたかもしれないが、検索しても見当たらなかったので記載。
日本では学費負担者が父母であることが多いが、海外においては学費負担者が本人であることが多い。ここで大きな違いが出る。
それは、学費負担者(仮に父母とする)が相応の権利を主張することにある。これは当然といえば当然であるのだが、大学側は学生側だけでなく父母も考慮して動かなくてはならない。そうなると、そこに対する費用(機会費用)や一種の利益相反(出欠を学費負担者に知らせる)なんかが出てくる。
大学とは学生のためにあるものだと私は思っている。しかし、現状大学は、学生と父母の両方あるいはそれに加えて社会の三者を向いた政策を行っている。父母を無視しろとまでは言わないが、学生本位の教育になるようになってほしい。
給付型奨学金の創設や学費の無料化などが議論されているが、実現すれば学生本位の、学生だけを考えた教育ができるのだろうか。そんな淡い期待を抱く。
速解 大学教職員の基礎知識-平成28年度改訂版-を読了
初心に返り、標記の本を読んでみた。
改正点等がわかりやすく整理はされていたが、入職1年目に読んでおけばよかったなと思う内容だった。私のような中堅に差し掛かる職員が、こうした本で勉強しているようでは正直まずい。財務関係は残念ながら興味がないので読み飛ばしm(_ _)m。
なお、この本を注文した際にわかったのだが、自大学がこの本を発行している学校経理研究会の法人会員校である(どこに会員校一覧があるのか?)ようで、大学宛に届くよう注文すれば割引されるというメールをいただいた。注文時に大学名は記載していない、且つ自宅宛に注文したのだが、JUAM会員にチェックをつけたので、そこから大学名が検索されたのか・・・?まぁ安く購入できたからよしとしよう。
さて、読んでわからなかったことが一つ。
P19
【キャリアガイダンスの制度化】
現在の厳しい雇用情勢、社会からの学生の資質能力への要請、学生の多様化に伴う卒業後の支援の必要性の高まりから、平成23年4月から大学や短大の教育課程に社会的・職業的自立に関する指導(キャリアガイダンス)を盛り込むことが義務付けられました(大学設置基準第42条の2,短期大学設置基準第35条の2)。これを受け各大学・短大はカリキュラムや就職活動などの支援体制を組んでいます。
とある。上記で根拠とされている 大学設置基準第42条の2は以下のとおり。
大学は、当該大学及び学部等の教育上の目的に応じ、学生が卒業後自らの資質を向上させ、社会的及び職業的自立を図るために必要な能力を、教育課程の実施及び厚生補導を通じて培うことができるよう、大学内の組織間の有機的な連携を図り、適切な体制を整えるものとする。
この条文で、教育課程に義務付けられたとまで果たして言えるのだろうか。
調べてみると、なるほどと納得。義務付けられているわけですね。
以下参考。
まずこの議論が質保証の基で議論されていたということに驚いた。この議論の最初の切り口までは見れていないが、学生の質を出口でという考え方なんだろうか。
話を元に戻すが、キャリアガイダンスという言葉は、当初設置基準上に盛り込むことが検討されたようである。しかし、質保証システム部会等での議論により用語の整理がされたようだ。色々追っていってみるとその経緯は面白い(特に質保証システム部会(第12回) 議事録)。
ただ、議事録を一つ一つ追っていくのはなかなか骨が折れた・・・。
大学の規程等に対しても思うのだが、条文上で上手く表現してはくれないものかと。職員として知っておくべきなのだろうが、法律は法律で、それを見たら解釈が一定程度は誰にでも理解できるような条文であってほしい。法律なので難しいのだろうが、用語の整理があったことがわかるよう、注釈を付けて別途用語集を参照するようなかたちにできないだろうかなんてことも思う。
法学部に言わせるとそんなことできるか!ときっと怒られるだろうが(法律は判例等にも左右されるわけなので)、専門家でなくても理解できるものに法律の方から降りてきてくれないかと思うのだ。難しい文章で曖昧さを残すことがいいことでもあるが、集団的自衛権のように"解釈"によって変わることがないように法律も変わっていくべきではと。
勉強しろってことですね(汗)
人事の主語は組織か社員(職員)か
以下の記事を拝読した。
タイトルでは経営陣も「研修」を受け続けるとなっているが、それよりも目を引いたのは以下である(抜粋)。
経営トップの仕事の3割は人材育成
企業を成長させるのもダメにするのも人材であり、それが経営の最大の課題であるならば、最大の課題に取り組むのがトップの役割だ」
「人材育成もリーダーシップも、「主語」が他の企業とは違うのである。よく、「人事権は会社にある。したがってキャリア形成について本人の意向は聞くが、最後は会社が決めて通知する」という話を聞く。
しかし私たちは、「それは違うだろう。キャリアは一人ひとりの社員のものであり、職業人としての成長を考えて作っていくもの。会社はニーズを明示しながらも、個人のキャリア形成をサポートしていく存在。そうでなければ、自発的な努力も起こらないし、変化力も強化されず、企業の力も弱くなってしまう」と考える。
つまり、主語はあくまでも「社員」。人材育成やキャリア形成は、社員が会社と、いわばアライアンスを組んで、対話をしながら実現することとなる。ゴールを共有して、個人も企業も強くなり、持続的に社会に貢献できるのだ。そこからすべてが導き出されている。すると企業も、人事権などというものを振りかざす必要もなくなってくるのだ。
「人を育てる」や「人をつくる」のようなメッセージを発している大学業界において、学生を育てるという意識はあるものの、職員を育てる、職員が主語になっている大学は果たしてどれだけあるのだろうか。
様々な社会の問題に対し、教育関係者は苦言を呈したり進言したりする。
ブラック企業、人材ではなく人財、社員の満足度、やりがい搾取など。しかし自らが所属する組織がそのような旧態依然の組織になっていることもある。自大学がそうとは言わないが、大学、教育業界は非常に保守的である。そして、上記にあるのと同様に、本人のキャリアパスより大学の事情を優先する。
それはそれで、人事上致し方ないのかもしれない。しかし一方で、教育業界はそういった先進的な取り組みであったり、自らを変えることに積極的な機関であってほしいと思うのだ。
特に人事異動においては正直問題は多いと感じる。職員間でも「なぜ君がそんな部署に・・・」のようなことをよく聞く。このあたりはジェネラリストなのかスペシャリストなのかという議論もあるが、本人の希望は一定程度配慮するとか、一部職員のドラフト制度(この職員がほしい(2年以上同じ部署に所属している職員に限る)という要望を各部署1人、年に一回は出せる ※ 氏名重複時はクジ)とか、職員あるいは教員からの推薦制度なんかはあってもいいんではないかなと思う(最初以外は組織の理論だが)。
保守的なのが一概に悪いとは言わないが、社会にものをいえる大学だからこそ、積極的な変化を求めたい。人事の主語が職員になることを願う。
三つのポリシーの策定及び公表の義務化について②
以前にも書いたが、三つのポリシーの策定及び公表が義務化された。
大学職員ブログとして著名なhigh190さんのブログでも触れられている。
今回の改正で理解できなかったのが、大学院における三つのポリシーの扱いである。大学院においては、AP(アドミッションポリシー入学者の受け入れ方針)のみ策定が義務化され、それ以外のCP(カリキュラム・ポリシー:教育方針)、DP(ディプロマポリシー:学位授与の方針)は義務化されていない。
これは、high190さんのブログに記載があるように「大学側が想定する学修成果を飛び越える人材の育成を大学に期待しているため」なのかどうか、そのあたりの記載は文科省の資料等では見つけられなかった。しかし、以下の大学院部会議事録において(一部抜粋)「がちがちにポリシーで確固たるものを作ってしまうと、そこからはみ出るような人材を育成できなくなる」(大阪大学の川嶋先生より)との発言があっている。
こうしたことから、AP以外は義務化が見送られたものだと思う。
しかしその一方で、実際の通知では「大学院については入学者受入れの方針の策定・公表のみが規定されているが,これは,改正前における同様の規定(第172条の2第1項第4号)について,今般の改正の際に整理を行ったものであり,従前の規定の趣旨から変更はないこと。なお,大学院においても,それぞれの自主的・自律的な判断に基づき,課程の修了の認定に関する方針や教育課程の編成及び実施に関する方針の策定に積極的に取り組むことが期待されること。」と記載されており、義務化はしないけど、策定を積極的にしてねとしている。
学校教育法施行規則の一部を改正する省令の公布について(通知):文部科学省
加えて、以下の第3次大学院教育振興施策要綱では、三つのポリシーを一体的に策定せよとある。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/28/03/__icsFiles/afieldfile/2016/04/15/1369696_1.pdf
果たして文科省は大学院教育をどうしたいのだろうか。
ここで言えることは、義務化はしないけど、策定を推奨するということだろう。では、義務化を見送ったポリシーを超越する人材を育成するためにという理想は?と思うのだ。
義務化されていないのであれば作らなくていい。個人的にはそう思うのだが、そうは言ってられないのが大学業界。推奨される=作るべきだという理論になる。文科省の顔色を伺うからだ。
ポリシーについてもそうだが、何でもかんでも作ればいいというものではない。また、作ることによっての弊害(それに当てはまらない人材、定期的な見直し等)もある。がんじがらめになってしまわないよう、こうしたものとは"上手く"付き合いたいと思う。
ボキャ貧と言われることについて
文科省の施策や読んだ本について書きたいけども、調べつつ書かないといけないので、蛇足のブログです。たまには書いてアウトプットしないと。。
さて、タイトルについて、最近ボキャ貧という言葉があるらしい。ボキャブラリーが貧困ということのようだ。ラインのようなスタンプで会話ができるもの、Twitterのような文字制限のあるものなどが影響しているようである。
確かに、今では何にでも使える「ヤバイ」という言葉もある。料理であれば美味しいでも不味いでも使えるし、物であれば素敵、好みだという意味であったりなどなど、色んなものに"応用の効く"言葉だ。
私は以前留学していたことがある。その際に気付いたこと、それは付き合う人によって使う言葉が違うということだった。人によっては流行り言葉を使ったり、日本語の「ヤバイ」というような言葉を使ったりする。その一方で違う友人は諺や喩えを織り交ぜながら話してきた。後者の友人と話すときは特に常に辞書が手放せなかった。
こういう話をすると、後者のような人と付き合えと言われそうだが、後者は辞書に載っている言葉を使うから調べればわかったが、前者は辞書に載っていないために理解するのが難しかった。そうするとどうするか。最終的には日本語で理解するのではなく、現地の言葉をそのまま受け入れるという理解に至った。なんとなく感覚的なもので日本語での説明はできないのだが、ふっと腑に落ちる瞬間があったのだ。最終的には英英辞典(あくまでも例え。英語ではないので英英辞典ではありません)で言葉をひくようになった。まぁ通訳者、翻訳者としては向いていないということなのかもしれない。
それはさておき、人によって言葉の癖というのがある。私であれば、よく「一方で」とか「一般的には」とかを使っているように思う。普段の癖を直すように、違った言葉を使ってみると良いのかもしれない。
俳句や短歌が短い言葉で大きな広い世界観、情緒風情を表現したように、制約があるからこそ生まれるものもあると思う。短いなかでこそできる表現を。