日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

給付型奨学金について

 しばらくぶりのブログ更新。

 結局人事異動がなく、ショックを受けていたのです。権限も責任もなく、ただ上の指示どおりに仕事をするという、変えようにも変えられない不自由を抱えております。

 それはさておき下記の記事を拝読。

netallica.yahoo.co.jp

 

 記事にもあるように、検討されていた給付型奨学金の創設が見送られる模様。

 実際私も以前のブログで記載したように、給付型の奨学金より優先すべきところがあると思っているので、その優先事項に支出してもらえればなんの文句もない。しかし、残念ながら必要経費を理由に導入が見送られただけのようなので、残念である。

 

 上記の記事では、大学進学ができる人というのはそれなりに恵まれた人であるということ、給付型の奨学金が更なる格差を生む可能性があること、学業成績や人物評価は元々恵まれた人の方が高い傾向にあることなどが触れられており、非常に整理されまとめられた記事であった。

 

 社会的にはどれだけ家庭の経済状況に左右されずに"平等"な教育の機会を与えられるかが大事であろうと思う。

 

 一方で、大学として支援すべきは何なのかということは考える必要がある。特待生は成績を基にしている。給付型奨学金は財政状況等を加味するのと共に、ある一定程度の成績を求めている。優秀な成績を修められる人は、恵まれた環境である場合が多いこと、そして一定程度の成績を修められない状況にある学生こそが、本来は支援すべき対象なのかもしれないこと、これを忘れてはならない。

 親から勘当されていて、自分で生計を立てていたりなど、様々なケースがあってなかなか対処はしづらいが、まずは家計の状況に応じてというのも一案かもしれない。もちろんこれにも抜け道等があろうから、手はうちづらいものではあるが・・・。

一人旅(旅行記録)

 今回は中身の無い旅行記録です。

 

 緊張しいで引っ込み思案。且つビビリな私。GWは一人旅をしてきました。

 いざ東京へ。(2泊3日)

 

 一人旅といっても友人の結婚に合わせて旅行を組み込んだもので、お祝いの日もせっかくだからと時間までどっか行こうとスーツで歩きまわり、無謀なことに等々力渓谷へスーツ&革靴で。

 GW中に等々力渓谷へ行った方で、スーツ姿の人を見た方はわたくしかもしれません。

 

 等々力渓谷は失礼な話、水の流れがあまりなく、濁っていたためイマイチ。ただ、渓谷付近にあった成城石井を見つけ、これがテレビで見た成城石井か!と初の成城石井を満喫。一般のスーパーと見た目は変わらなかったが、品揃えはすごいなというのが感想。

 なお、革靴で歩き回るという無謀なことをしてしまったため、その日の夜、また翌日、翌々日ととてつもない筋肉痛が足を襲うという・・・。お祝いについてはここでは書きません。

 

 翌日はそうした筋肉痛を引きずりながら明治神宮へ。

 清正井はなんとなく怖さがあって行かなかったけれど、参拝するのとともに、宝物殿にも行き、宝物殿前の芝生で筋肉痛の足を休めながらパワーを吸収。途中カラスに襲われつつも、ゆったりした時間を過ごす。

 その後、月島に向かいもんじゃを食べようと店を尋ねるも、GWで人が多いこともあり、いくつかのお店を尋ねるもお一人様はお断りという東京の冷たい洗礼を受け、近くの定食屋で食事を済ませることに・・・。いつかはもんじゃを食べてみたい。。

 

 最終日は美味しいものだけは食べたいと、カフェに寄ってお茶をしてゆっくり過ごす。

 

 就職活動の時やこれまでの出張なんかもあり、意外と東京って行ったことのあるところが多くて、今回は少々メジャーじゃないところへ足を向けてみた。改めて、東京の便利さを感じるとともに、人の多さに疲れた。

 

 移動時間が長かったこともあり、本を読めたのは良かったかな。またそのうちその本の内容についてでもブログで触れることができればと思います。

ポートフォリオ

 教育においては、ポートフォリオが大切だと言われる。

 ポートフォリオとは、自分が学んできたりやってきたことの履歴だと私は認識しているが、図書館の読書通帳もこれに当たるのだろうなと思う。

www.asahi.com

 図書館で借りてきた本だけでなく、買った本とかその図書館以外で借りた本、友人から借りた本など、そういったものも履歴が残せるといいなと思った。読んできた本の履歴は自分が学んできた軌跡でもある。

 そう考えると、読み終わった本を古本屋に売っていた行為を少々後悔した。

 

 どういった人を育てていくのかというのが教育では最大の課題であり、優れた人を生み出す教育とはというものを突き詰めていくと、優れた人が学んできた履歴をデータベース化できるのが一番なのだろうなと以下の番組を見て思った次第である。そして、かつて見た上記の読書通帳の記事を思い出した。

 なんとなくテレビを付けてたらやっていただけなので、途中からしか見れなかったのが残念だ。

www4.nhk.or.jp

 人は本だけでなく、学校、親や友人との関わり、自然など、様々なことから学び、そこから"その人"が形成されていく。

 優れた人を作り出すためには、そうではない人も含めたデータベースを作り、そこからの差異を探っていくことが一つの手立てとして考えられるだろう。全てをデータベース化するなんてことは途方も無いことだし、なんとなく無機質に感じてしまう部分もあるのだが、そういうことをしていくことこそが人が進化していく過程なのかななんても思ったりもする。

現場の職員には教員の想いを組むという役割もある。

 先日の後輩との食事(普通は飲みなのだが、私が下戸なので食事と書く)で気づいたことがもう一点あった。

 

 私たち職員、とかく現場の職員は学生の声を代弁することが重要だ。しかし、それに加えて、教員の声も代弁することも大事である。

 補助金に対する指摘事項、あるいは指摘されていないが指摘が考慮される事項について、とかく事務職員というのは保守的になる。他大学でこういった指摘があった。あるいはこういった指摘が予想される。だからこそ、そういったものについては指摘がないように始めから申請から除外する。突かれないように、できるだけ危ないものは外すなどなど。

 

 こうした流れは所属する組織では一般的で、指摘をされないように、安全にという意識がある。これ自体は事務職員としては問題はない。しかし、そうした流れの中で教員の想いを踏みにじってしまうことがある。

 

 教員は教員で教育に対して、また自分の持っている科目、研究分野、各種課程に関わっている教員は課程にもプライドを持っている。そうした中で、危ないから補助金の対象からは外すという選択肢を事務職員がした場合、それは現場の教員のプライドを傷つけるものだと思う。教員側から見れば、自分の科目が公には認められていないように感じるであろう。

 

 補助金の額や教育課程に影響がないから問題はない。というようなことを管理部門の職員は言いがちだ。「表面上はこれで」のように。

 

 そうなると、抽象的な言い方だが、そこが"既定の枠"となってしまい、幅が狭くなってしまう気がする。一度できた枠を広げるのは難しく、次の枠はそれより狭まってしまう。 ↓のようなイメージ。

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 管理部門の主張も理解できるが、過度に保守的にならないように、教員の想いもできるだけ踏みにじることがないように、現場の職員には教員の想い、声を上げる役割もあるのだと思った。そうした中で落としどころを探る役割が求められるだろう。

補助金依存から脱却するには経済的な独立性が大事

 以下の読売新聞の記事。 

www.yomiuri.co.jp

 以前のエントリーでも書いたが、こうした傾向は良いことだと思う。

hibiblog.hatenablog.com

 とかく日本の文化として、稼ぐこと、教育やスポーツにお金が絡むことに嫌悪感を抱く人が多い気がするが、経済的な独立性があるからこそ言える部分もあると思う。そういった意味で、大学は自己で稼げる手段を持つことが大事ではなかろうか。

 

 補助金依存から脱却するには経済的な独立性が大事だと私は思う。

一番大事なのは人間性なのかもしれない

 昨日、以前の部署の後輩と久々にご飯を食べに行った。この後輩は入職から昨年度末まで一緒に仕事をし、私が直接指導をしてきた。非常に勉強熱心であり、その姿勢には感嘆の念すら覚えた。本人は謙遜しているが、非常にできた後輩で、年数が倍近い私よりも既にできる後輩であると私は思っている。

 

 以前のエントリーでも書いたと思うが、先輩を追い越すのが後輩の役割であると思っているので、こうした現状を喜んでいる。それと同時に、そう簡単に追い越されてはいかんと、ある一定以上の壁(父親が息子の壁になるように)にはなっていないといけないと思う。もっと頑張らねばと自分に発破をかける。

 

 どういった点ができた後輩なのかというと、常に謙虚な姿勢であること、これに尽きる。常に謙虚であること、人の言葉を素直に受け入れる姿勢、人の悪口は言わないことなど、私にはないものをこの子は持っている。そういった意味では尊敬すらする。

 

 なんてことを思っていると、年齢や経験年数なんかではなく、人ってやっぱり人間性が一番大事なのかもしれないなと思った。年齢が上なだけで尊敬できない人にはならないよう、心の帯を締めたい。

補助金はあくまで"補助"金だ

 あちこちで話題になっている下記の記事。

www.asahi.com

  出来る限り日本語でとブログでは書いているが、今後のことを考えて官公庁は和製英語を使わず、英訳を考えて書くべきだと感じた。

 

 和製英語は一先ず置いておいて、補助金依存について、補助金はあくまで"補助"金であり、国の支援が見込みより低いとの批判があるが、私大はある程度こうした想定しておくべきであろう。

 あくまで"補助"なのであって、補助金のほとんどは5割までである(一部全額補助もあったりするが)。だからこそ、自大学の今後の方針をしっかりと定め、そこにあっている補助金にのみ申請するという姿勢が大切だと思う。

 

 私の所属している大学も補助金に飛びつく傾向があり、補助金の獲得金額、ランキングを非常に気にしている。そうしたことが逆に経営を圧迫していることもあることを肝に命じて置かなければならない。

 記事にもあるように、補助金を獲得すると想定していなかった仕事もでてくる。選定後の報告書作成等はもちろんのこと、大きな補助金となると、一時的にそれを処理するための部署を作ることさえある。部署が増えれば人件費もかかる。

 

 補助金によって経営が圧迫される。本末転倒ではないか。

 

 こうしたことにならないよう、補助金の獲得金額、ランキング志向から脱却し、何が自大学にとって大切なのかという視点から、自大学の方針を定めることが大事なのではなかろうか。まずは自己を見つめて、一本の筋が通った芯がある人(大学)になることから。と自大学の執行部にも言いたい。