適材適所
とある大学の職員の方の話。
大学では大きな災害(豪雨災害や地震等)が起きたとき、その地域に住む学生に奨学金を援助したり、緊急の貸与を行ったり、学費の減免を行ったりする。
学費に関する奨学金などでは、形式上、学生に一時的に金銭を渡し、それをまた納入してもらうという手続きをとることがある。その際、学生がこのお金があれば…とふと声を漏らしたことがあり、なんとも言えない気持ちになったとの話を聞いた。このお金があればもっとできることがある。そう漏らした学生に気持ちが揺さぶられるのはすごくわかるなと思った。
その職員に対しては、その時は感受性が高いんだな。優しい人なんだなと思った。
時間をおき思い返してみると、こういう個人の資質(性質?)から適所への職員の配置を考えることができるのではないかと思った。
感受性が高いということは相手の立場に立てる人なわけで、教務だったり学生部、あるいはハラスメントの被害者に寄り添ったりする人事などが向いている適所と言えるのではないだろうか。一方で感受性が高すぎる場合は、それによって自らを傷つけることもあり、その場合適所は変わってくる。
大学職員は総合職で採用されることが多い。ある意味どこでもなんでもしますという何でも屋、便利屋のような扱いを受けたりもする。他の職でも総合職採用は多いだろうが、大学職員ほど幅広い職務をこなす職というのも珍しいのではないだろうか。部署が変わるとほぼ転職と同じと言われる職。この職以外に就いたことがない私には正確な判断はできないが、珍しい職ではないかと思う。
現在、大学行政においては、SD(職員の能力開発)が義務化され、頻繁に議論されている。このSDとともに職員の適材適所も一緒に議論されてしかるべきなのかなと思う。総合職で行う業務が固定化されていない大学職員だからこそ、個人の能力とは別に、個人の資質に応じた適材適所への配置を探ってもいいのではないかなと。もちろん同質の職員ばかりが集まってしまうと、対応が一辺倒になったり、イノベーションが起きづらかったりという弊害はある。適所と共に協働する職員同士の組み合わせも大事だ。
私はSDよりもこちらの適材適所への配置の方に関心があり、個人の資質や性質による適所、またどうしても合わない人というのもいるので、そうした「人同士の組み合わせ」というのももう少しなんとかできないかなとふと思った次第。