日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

多様性について

 多様性について、考える機会があった。

 多様性と言われると、多様性があった方がいい。多様性は認めるべきだという意見をよく聞く。果たしてそうなんだろうか。

 

 私自身、このブログでも書いているように、所属の意向と自分のやりたいことや意見が合わない部分があり、ストレスを抱えている部分がある。

 多様性という意味では、あらゆる人が居る方が良くて、異なる意見、ある意味みんな違ってみんないいということだと私は理解しているのだが、あまりにそれを認めすぎると何もできないのではないか。また、多様性がある(色んな人がいる)ために、物事が決まらなかったりスピード感を持った動きができないこともあるのではないかと思っている。

 

 少なくとも私自身は、人をあからさまに否定する人や違う意見を全く受け入れない人とはうまくやっていく自信がなく、多様性が大事だとは思いつつも、そうした人とは違う世界で生きたいと思ってしまう。

 

 多様性とは違いだと思うのだが、中原先生は次のように述べている。

人種や性別は、目に見えるから気づきやすい「顕在的な多様性」ですよね。でも価値観や考え方の違いは目に見えない「潜在的な多様性」です。

わたしたちは「顕在的な多様性」に目を奪われがちですが、「潜在的な多様性」がそもそも存在していることには、なかなか目を向けません。

多様性とは、氷山みたいなものなんだなと思いました。つまり、図に表すとこんな感じです。

多様性.png

cybozushiki.cybozu.co.jp

 あまり引用が多すぎると引用ではなくなってしまうが、上記では多様性の範囲についても述べられている。詳しくはリンク先を参照してほしいが、組織にとってもどこまでの多様性を認めるべきかという議論はあるべきだと思う。認めるべきかというよりも、その範囲内の人をどう採用するか、あるいは矯正というと語弊があるが、組織の意向や目指すべき方向性にどう合わせてもらえる人を採用するかだと思う。そうでなければ、組織にとっても、その個人にとっても不幸なのではないかなと。もちろん組織が変化するときには、既存の人がその範囲から外れてしまうこともあろうが。

 

 なんてことを思いつつも、個人として自分の許容範囲が狭いのではないか。その狭さによって所属との乖離にストレスを感じてしまっているのではないか。なんてことを思った。許容範囲を広げること、人としての器がまだまだ狭いのかなと。