日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

三つのポリシーの策定及び公表の義務化について②

 以前にも書いたが、三つのポリシーの策定及び公表が義務化された。

hibiblog.hatenablog.com

 大学職員ブログとして著名なhigh190さんのブログでも触れられている。

d.hatena.ne.jp

  今回の改正で理解できなかったのが、大学院における三つのポリシーの扱いである。大学院においては、AP(アドミッションポリシー入学者の受け入れ方針)のみ策定が義務化され、それ以外のCP(カリキュラム・ポリシー:教育方針)、DP(ディプロマポリシー:学位授与の方針)は義務化されていない。

 これは、high190さんのブログに記載があるように「大学側が想定する学修成果を飛び越える人材の育成を大学に期待しているため」なのかどうか、そのあたりの記載は文科省の資料等では見つけられなかった。しかし、以下の大学院部会議事録において(一部抜粋)「がちがちにポリシーで確固たるものを作ってしまうと、そこからはみ出るような人材を育成できなくなる」(大阪大学の川嶋先生より)との発言があっている。

 大学院部会(第77回) 議事録:文部科学省

 こうしたことから、AP以外は義務化が見送られたものだと思う。

 

 しかしその一方で、実際の通知では「大学院については入学者受入れの方針の策定・公表のみが規定されているが,これは,改正前における同様の規定(第172条の2第1項第4号)について,今般の改正の際に整理を行ったものであり,従前の規定の趣旨から変更はないこと。なお,大学院においても,それぞれの自主的・自律的な判断に基づき,課程の修了の認定に関する方針や教育課程の編成及び実施に関する方針の策定に積極的に取り組むことが期待されること。」と記載されており、義務化はしないけど、策定を積極的にしてねとしている。

 学校教育法施行規則の一部を改正する省令の公布について(通知):文部科学省

 

 加えて、以下の第3次大学院教育振興施策要綱では、三つのポリシーを一体的に策定せよとある。

 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/28/03/__icsFiles/afieldfile/2016/04/15/1369696_1.pdf

 

 果たして文科省は大学院教育をどうしたいのだろうか。

 

 ここで言えることは、義務化はしないけど、策定を推奨するということだろう。では、義務化を見送ったポリシーを超越する人材を育成するためにという理想は?と思うのだ。

 

 義務化されていないのであれば作らなくていい。個人的にはそう思うのだが、そうは言ってられないのが大学業界。推奨される=作るべきだという理論になる。文科省の顔色を伺うからだ。

 

 ポリシーについてもそうだが、何でもかんでも作ればいいというものではない。また、作ることによっての弊害(それに当てはまらない人材、定期的な見直し等)もある。がんじがらめになってしまわないよう、こうしたものとは"上手く"付き合いたいと思う。

ボキャ貧と言われることについて

 文科省の施策や読んだ本について書きたいけども、調べつつ書かないといけないので、蛇足のブログです。たまには書いてアウトプットしないと。。

 

 さて、タイトルについて、最近ボキャ貧という言葉があるらしい。ボキャブラリーが貧困ということのようだ。ラインのようなスタンプで会話ができるもの、Twitterのような文字制限のあるものなどが影響しているようである。

 

 確かに、今では何にでも使える「ヤバイ」という言葉もある。料理であれば美味しいでも不味いでも使えるし、物であれば素敵、好みだという意味であったりなどなど、色んなものに"応用の効く"言葉だ。

 

 私は以前留学していたことがある。その際に気付いたこと、それは付き合う人によって使う言葉が違うということだった。人によっては流行り言葉を使ったり、日本語の「ヤバイ」というような言葉を使ったりする。その一方で違う友人は諺や喩えを織り交ぜながら話してきた。後者の友人と話すときは特に常に辞書が手放せなかった。

 こういう話をすると、後者のような人と付き合えと言われそうだが、後者は辞書に載っている言葉を使うから調べればわかったが、前者は辞書に載っていないために理解するのが難しかった。そうするとどうするか。最終的には日本語で理解するのではなく、現地の言葉をそのまま受け入れるという理解に至った。なんとなく感覚的なもので日本語での説明はできないのだが、ふっと腑に落ちる瞬間があったのだ。最終的には英英辞典(あくまでも例え。英語ではないので英英辞典ではありません)で言葉をひくようになった。まぁ通訳者、翻訳者としては向いていないということなのかもしれない。

 

 それはさておき、人によって言葉の癖というのがある。私であれば、よく「一方で」とか「一般的には」とかを使っているように思う。普段の癖を直すように、違った言葉を使ってみると良いのかもしれない。

 

 俳句や短歌が短い言葉で大きな広い世界観、情緒風情を表現したように、制約があるからこそ生まれるものもあると思う。短いなかでこそできる表現を。

給付型奨学金について

 しばらくぶりのブログ更新。

 結局人事異動がなく、ショックを受けていたのです。権限も責任もなく、ただ上の指示どおりに仕事をするという、変えようにも変えられない不自由を抱えております。

 それはさておき下記の記事を拝読。

netallica.yahoo.co.jp

 

 記事にもあるように、検討されていた給付型奨学金の創設が見送られる模様。

 実際私も以前のブログで記載したように、給付型の奨学金より優先すべきところがあると思っているので、その優先事項に支出してもらえればなんの文句もない。しかし、残念ながら必要経費を理由に導入が見送られただけのようなので、残念である。

 

 上記の記事では、大学進学ができる人というのはそれなりに恵まれた人であるということ、給付型の奨学金が更なる格差を生む可能性があること、学業成績や人物評価は元々恵まれた人の方が高い傾向にあることなどが触れられており、非常に整理されまとめられた記事であった。

 

 社会的にはどれだけ家庭の経済状況に左右されずに"平等"な教育の機会を与えられるかが大事であろうと思う。

 

 一方で、大学として支援すべきは何なのかということは考える必要がある。特待生は成績を基にしている。給付型奨学金は財政状況等を加味するのと共に、ある一定程度の成績を求めている。優秀な成績を修められる人は、恵まれた環境である場合が多いこと、そして一定程度の成績を修められない状況にある学生こそが、本来は支援すべき対象なのかもしれないこと、これを忘れてはならない。

 親から勘当されていて、自分で生計を立てていたりなど、様々なケースがあってなかなか対処はしづらいが、まずは家計の状況に応じてというのも一案かもしれない。もちろんこれにも抜け道等があろうから、手はうちづらいものではあるが・・・。

一人旅(旅行記録)

 今回は中身の無い旅行記録です。

 

 緊張しいで引っ込み思案。且つビビリな私。GWは一人旅をしてきました。

 いざ東京へ。(2泊3日)

 

 一人旅といっても友人の結婚に合わせて旅行を組み込んだもので、お祝いの日もせっかくだからと時間までどっか行こうとスーツで歩きまわり、無謀なことに等々力渓谷へスーツ&革靴で。

 GW中に等々力渓谷へ行った方で、スーツ姿の人を見た方はわたくしかもしれません。

 

 等々力渓谷は失礼な話、水の流れがあまりなく、濁っていたためイマイチ。ただ、渓谷付近にあった成城石井を見つけ、これがテレビで見た成城石井か!と初の成城石井を満喫。一般のスーパーと見た目は変わらなかったが、品揃えはすごいなというのが感想。

 なお、革靴で歩き回るという無謀なことをしてしまったため、その日の夜、また翌日、翌々日ととてつもない筋肉痛が足を襲うという・・・。お祝いについてはここでは書きません。

 

 翌日はそうした筋肉痛を引きずりながら明治神宮へ。

 清正井はなんとなく怖さがあって行かなかったけれど、参拝するのとともに、宝物殿にも行き、宝物殿前の芝生で筋肉痛の足を休めながらパワーを吸収。途中カラスに襲われつつも、ゆったりした時間を過ごす。

 その後、月島に向かいもんじゃを食べようと店を尋ねるも、GWで人が多いこともあり、いくつかのお店を尋ねるもお一人様はお断りという東京の冷たい洗礼を受け、近くの定食屋で食事を済ませることに・・・。いつかはもんじゃを食べてみたい。。

 

 最終日は美味しいものだけは食べたいと、カフェに寄ってお茶をしてゆっくり過ごす。

 

 就職活動の時やこれまでの出張なんかもあり、意外と東京って行ったことのあるところが多くて、今回は少々メジャーじゃないところへ足を向けてみた。改めて、東京の便利さを感じるとともに、人の多さに疲れた。

 

 移動時間が長かったこともあり、本を読めたのは良かったかな。またそのうちその本の内容についてでもブログで触れることができればと思います。

ポートフォリオ

 教育においては、ポートフォリオが大切だと言われる。

 ポートフォリオとは、自分が学んできたりやってきたことの履歴だと私は認識しているが、図書館の読書通帳もこれに当たるのだろうなと思う。

www.asahi.com

 図書館で借りてきた本だけでなく、買った本とかその図書館以外で借りた本、友人から借りた本など、そういったものも履歴が残せるといいなと思った。読んできた本の履歴は自分が学んできた軌跡でもある。

 そう考えると、読み終わった本を古本屋に売っていた行為を少々後悔した。

 

 どういった人を育てていくのかというのが教育では最大の課題であり、優れた人を生み出す教育とはというものを突き詰めていくと、優れた人が学んできた履歴をデータベース化できるのが一番なのだろうなと以下の番組を見て思った次第である。そして、かつて見た上記の読書通帳の記事を思い出した。

 なんとなくテレビを付けてたらやっていただけなので、途中からしか見れなかったのが残念だ。

www4.nhk.or.jp

 人は本だけでなく、学校、親や友人との関わり、自然など、様々なことから学び、そこから"その人"が形成されていく。

 優れた人を作り出すためには、そうではない人も含めたデータベースを作り、そこからの差異を探っていくことが一つの手立てとして考えられるだろう。全てをデータベース化するなんてことは途方も無いことだし、なんとなく無機質に感じてしまう部分もあるのだが、そういうことをしていくことこそが人が進化していく過程なのかななんても思ったりもする。

現場の職員には教員の想いを組むという役割もある。

 先日の後輩との食事(普通は飲みなのだが、私が下戸なので食事と書く)で気づいたことがもう一点あった。

 

 私たち職員、とかく現場の職員は学生の声を代弁することが重要だ。しかし、それに加えて、教員の声も代弁することも大事である。

 補助金に対する指摘事項、あるいは指摘されていないが指摘が考慮される事項について、とかく事務職員というのは保守的になる。他大学でこういった指摘があった。あるいはこういった指摘が予想される。だからこそ、そういったものについては指摘がないように始めから申請から除外する。突かれないように、できるだけ危ないものは外すなどなど。

 

 こうした流れは所属する組織では一般的で、指摘をされないように、安全にという意識がある。これ自体は事務職員としては問題はない。しかし、そうした流れの中で教員の想いを踏みにじってしまうことがある。

 

 教員は教員で教育に対して、また自分の持っている科目、研究分野、各種課程に関わっている教員は課程にもプライドを持っている。そうした中で、危ないから補助金の対象からは外すという選択肢を事務職員がした場合、それは現場の教員のプライドを傷つけるものだと思う。教員側から見れば、自分の科目が公には認められていないように感じるであろう。

 

 補助金の額や教育課程に影響がないから問題はない。というようなことを管理部門の職員は言いがちだ。「表面上はこれで」のように。

 

 そうなると、抽象的な言い方だが、そこが"既定の枠"となってしまい、幅が狭くなってしまう気がする。一度できた枠を広げるのは難しく、次の枠はそれより狭まってしまう。 ↓のようなイメージ。

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 管理部門の主張も理解できるが、過度に保守的にならないように、教員の想いもできるだけ踏みにじることがないように、現場の職員には教員の想い、声を上げる役割もあるのだと思った。そうした中で落としどころを探る役割が求められるだろう。

補助金依存から脱却するには経済的な独立性が大事

 以下の読売新聞の記事。 

www.yomiuri.co.jp

 以前のエントリーでも書いたが、こうした傾向は良いことだと思う。

hibiblog.hatenablog.com

 とかく日本の文化として、稼ぐこと、教育やスポーツにお金が絡むことに嫌悪感を抱く人が多い気がするが、経済的な独立性があるからこそ言える部分もあると思う。そういった意味で、大学は自己で稼げる手段を持つことが大事ではなかろうか。

 

 補助金依存から脱却するには経済的な独立性が大事だと私は思う。