大学のガバナンス改革について
学長権限が強くなったと言われるガバナンス改革。この改革に私は否定的だ。
最近学内の先生方と飲みに行く機会が何度かあった。そこで聞いた様々な話や自分のこれまでの理解を総合すると、学長や学部長等、組織の長には大胆な決断力や秀逸なアイディア等よりも、広く学内の声を聞き、合意形成を図ることのできる調整能力が一番大事なのではないかというのが私の意見だ。
もちろん大胆な決断力はあった方がいいが、学長や学部長は任期により交代する。学内の合意形成に時間を割かず、多くの反対意見を押し切って決断をすると、後々にそれが覆され元に戻る。アイディアなんかは色んな職員(教員含む)が持っているわけで、それを汲み取ればいい。
そう考えると、学長や学部長等は飛び抜けて優れた人ではなくてもよく、ただただ普通の(といってはなんだが)能力を持った人でよいのではないかと思う。
大学が変わらないままでいいとは思わないが、これまで大事にしてきた学内の合意形成というものをもう少し大事にしてもいいのではないかと下記の京都大学の山極総長のTwitterや京大新聞を見て思った。
京都大学が長年ですね、京都大学の中で京都大学を支えてきた人たちの意向をきちんと反映させた形で総長を選んできたという伝統はやはり重要なものであると私は思っているので、それを完全に安西さんの申し出た方法に変えるという気持ちはありません。
— 山極壽一 京都大学総長の名言bot (@yamagiwa_j_bot) 2016年7月4日
京大っていうのは猛獣ぞろいです。この猛獣というのは、それぞれ世界の最先端に立って活躍している人達のことです。そういった人たちに適材適所で働いてもらいながら京大の良さをつくり上げていくっていうのが総長の役割だとすれば、要するに私には猛獣使いの能力が求められているのだと思います。
— 山極壽一 京都大学総長の名言bot (@yamagiwa_j_bot) 2016年6月28日
人に伝えること
最近常々思っていること。
仕事のやり方なんかは比較的簡単に伝わる。しかし、その背景にある考え方や想いというのはなかなか伝え方が難しい。
そういったことを伝える時には、少々くさいが"想いを言葉にのせること"を考えて話すようにしている。例えば、教育に対する教員の想い、期待以上のものを出すというようなプライド、常に良い方に変えられないかと考える事など。
押し付けがましくなってはいけないし、それを強制したくはないが、何かを受け取ってもらえるように。
私の想いが伝わっているかはわからないが、少しでも伝わるように、これからも大事なことを伝える際には想いを言葉にのせることを心がけたい。
学生寮の必要性
各大学、寮を持っているところも多いと思う。私が所属する大学も持っている。
ある一つの策だけでなく、様々な策を用意しつつ、それが組み合わさって良い方向にすすめばいいなと思う。複数の選択肢があることは学生にとってもよいだろう。
※ ただし、色々と手を出し過ぎないことは大事だ。
たすかりすのような場合、大学、そして大学周辺が一つの町であるかのように、一体的に発展していくといいなと思う。
もちろん、学生のトラブル(深夜にうるさい)、留学生のトラブル(ゴミ出しを守らない、騒ぐ)等々あろうが、それは郷に入っては郷に従えで、互いに譲れるところは譲りつつ。
最近高齢者からの苦情が多いというが、高齢者は「いつか来た道」若い人たちは「いつか行く道」と思えないかな。(子ども時代は誰しも通った道で、高齢者になるのはみんないつか行く道でという意味)
趣味の一つ
教育関連にどっぷり浸かっているとまでは言えないものの、それなりにプライベートでも学んでいる。そんな中で、リラックスの一つとなっているのがマンガだ。
全く興味のない人もいるかもしれないが、もし時間がある人は下記のマンガを読むことをおすすめする。
ANGEL VOICE 1 (少年チャンピオン・コミックス) | 古谷野 孝雄 | 本 | Amazon.co.jp
サッカーマンガだが、単純なサッカーマンガではない。
最終まで40巻となかなか長いが、その間に何度泣いたかわからない。
現実では難しいかもしれないが、「頑張っている者は報われるべきだ」とか「必ず誰かが見てくれている」とか「一つのことを一生懸命にする、全力を尽くすことで見えてくるものがある」などなど、気付かされることが多い。
私の場合、発想が変わっていたり、正しいと思うことは言うということを心情としているので、自大学で少々異端児扱いされている部分がある。それでも自分が尊敬する人たち、理解してくれる仲間に、君は間違っていないと言われ、支えられてきた。
体裁を気にすることよりも、自分が正しいと思うことをやり通すこと、正しいと思うことを言い続けること、そういうことをこのマンガで再認識させてもらった気がする。
読んだことがない方にはぜひおすすめしたい。
それがその時のベスト
仕事とプライベート
仕事とプライベートは別。
先日、普段の仕事の姿を知っていても、プライベートは別だからわからないという話をされた。大して仲の良い人ではなかったりすればなんとも思わなかったのだが、自分が信頼をし、素を見せられている、そんな関係性だと思っていた人からの言葉だったために、少々心を傷めた。
私自身、仕事とプライベートの姿が別であるということに異論はない。しかし、その人の所作や振る舞いにその人の本質が自然と出るように、仕事にもその人本来の姿があるのではないかと思っている。
同じ仕事をするのでも、人によってやり方(仕事そのもののやり方、他への配慮の仕方、根回し等)は違う。だからこそ、そこにその人の本質もあるのではないかと思う。実際私の場合、プライベートな付き合いももちろんそうだが、それとは別に仕事を通して信頼できる人なのかどうかというのはわかると思っている。仕事とプライベートをきっちりと分ける人もいるが。
私自身、仕事とプライベートを分けられている人間ではない。プライベートが仕事に、仕事がプライベートに影響している。それは、仕事をしだしてからのプロ意識であったり、知識の必要性であったり、学びの楽しさだったりを知ったからで、仕事とプライベートの境は曖昧だ。朝起きてはニュースを見ながら高等教育関連のニュースや職員ブロガーさん方のブログをネットサーフィンするし、仕事が終わってからも同様だ。それに加えて休日はそういった書籍なんかも読んだり、余裕があれば文科省の答申なんかも読んだりする。
※ もちろんそれ以外の趣味にも時間は使ってます。
休日は、プライベートなのか仕事なのかわからないような、発表や外の研修会への参加なんかもしていて、このあたりも曖昧な部分だろう。仕事に備えて普段から色んなことにアンテナを張っている(つもり)なので、分けろと言っても分けられないのが本音だ。
それってどうなの?っていう人もいるだろうが、そういう場での学びや気付き、そこで出会える人にも非常に大きな影響を受けてきた。自大学ではたまに変わってるとすら言われることがある私も、外では認めてくれる人、仲間がいた。
そういう人たちのようになりたいと思うと、私の場合はプライベートの時間を削って学ぶしかなかった。
ただ、それに対しての後悔はない。学ぶうちに楽しさを覚え、教育に関われていることを幸せに思えた。恐らく私は知識欲が大きいのだろう。未知のこと、自分が気付かなかったことを知ることに非常に大きな喜びを覚える。
私が影響を受けた職員の一人に松宮愼二氏がいるが、彼もまた以下のように述べている。
仕事とプライベート、分けられる人とそうではない人がいて、自分は後者だったのだろうと思う。
なんてことを思いつつも、先日私に話をした方は、本当はきっとそういう意味ではなく、仕事では壁がある。普段の自分が出せているわけではないし、完全な素ではないからわからないと言いたかったんだろうなと思いつつも、一緒に色んなことをこなしてきたなかで、私という人をわかってくれているものと思っていたから、なんとなく自分を全否定された気がして結構なショックを受けた。
この砕け散った信頼というべきか想いというべきかわからないものを、なんとかかんとか自分の中で消化させねばと思う。