他部署への口出し
他部署への口出しは嫌われる。一般の会社はわからないが、大学の場合、部署が違うと違う会社のようなところも多い。
年に数回、未だに前の部署のことで相談される機会があり、その相談を求められた部署だけであれば相談の求めに応じて助言をするので、特に問題はない。しかし、そこから他の部署へ波及する際、今所属していない自分が言うと「なんでお前が言うのか」ということになる。なので今所属している人に言ってもらうものの、誰が言うか、またどういう言い方をするかっていうことも大事で、正論が通らないことも多い。こう書くと自分が言えば通るのかと思われるが、実際に言っていないのでわからない。多分自分が言っても内容は同じなので同じ結論となるのだろうが、何故正論が通らないのかがよくわからない。
致し方ないことはあるだろうけれど、人の不利益になること、今後に大きな影響を与えること等であれば、場合によっては戦う(論をもって)という選択肢も必要だと私は思っている。揉めるのが嫌っていうのもわかるけれど、正しいことは正しいと言っていいんじゃないかなと。
ただ、以前にも書いたように、人を動かすのは感情であるから、正論だけではいけないのだけれど。
多様性について
多様性について、考える機会があった。
多様性と言われると、多様性があった方がいい。多様性は認めるべきだという意見をよく聞く。果たしてそうなんだろうか。
私自身、このブログでも書いているように、所属の意向と自分のやりたいことや意見が合わない部分があり、ストレスを抱えている部分がある。
多様性という意味では、あらゆる人が居る方が良くて、異なる意見、ある意味みんな違ってみんないいということだと私は理解しているのだが、あまりにそれを認めすぎると何もできないのではないか。また、多様性がある(色んな人がいる)ために、物事が決まらなかったりスピード感を持った動きができないこともあるのではないかと思っている。
少なくとも私自身は、人をあからさまに否定する人や違う意見を全く受け入れない人とはうまくやっていく自信がなく、多様性が大事だとは思いつつも、そうした人とは違う世界で生きたいと思ってしまう。
多様性とは違いだと思うのだが、中原先生は次のように述べている。
人種や性別は、目に見えるから気づきやすい「顕在的な多様性」ですよね。でも価値観や考え方の違いは目に見えない「潜在的な多様性」です。
わたしたちは「顕在的な多様性」に目を奪われがちですが、「潜在的な多様性」がそもそも存在していることには、なかなか目を向けません。
多様性とは、氷山みたいなものなんだなと思いました。つまり、図に表すとこんな感じです。
あまり引用が多すぎると引用ではなくなってしまうが、上記では多様性の範囲についても述べられている。詳しくはリンク先を参照してほしいが、組織にとってもどこまでの多様性を認めるべきかという議論はあるべきだと思う。認めるべきかというよりも、その範囲内の人をどう採用するか、あるいは矯正というと語弊があるが、組織の意向や目指すべき方向性にどう合わせてもらえる人を採用するかだと思う。そうでなければ、組織にとっても、その個人にとっても不幸なのではないかなと。もちろん組織が変化するときには、既存の人がその範囲から外れてしまうこともあろうが。
なんてことを思いつつも、個人として自分の許容範囲が狭いのではないか。その狭さによって所属との乖離にストレスを感じてしまっているのではないか。なんてことを思った。許容範囲を広げること、人としての器がまだまだ狭いのかなと。
最近学んだこと
正しさよりも感情や共感が人を動かす。だから、正しさを主張するばかりでなく、まずは相手を理解し、自分を理解してもらうこと。
共感っていうのは仲間意識のようなもので、職場とかの飲み会なんかは別に好きではないんだけれども、そういう場にもちゃんと顔を出しなさいとある方から言われた。二次会等にも顔を出して、人付き合いをもっとやりなさい、人の懐にもっと入りなさいと。
確かにコミュニケーション力はない方なので、そういう人との付き合い方っていうのをもう少し学んだ方がいいんだと思う。30代半ば近くにもなってなにやってきたんだか・・・
ただ、今でも自分は変われると思うこと、それは大事にしたい。
人からの助言は必ず実行すると決めているので、二次会・・・頑張って行きます。下戸なので一次会で許容量いっぱいいっぱいだけど。。
教育というものの身近さ
以前書いた気もするのだが、教育は多くの人が受けてきたことから、議論しやすいテーマである。義務教育はほぼ全ての人が、高校教育、大学教育等も今は多くの人が受けるようになった。
自分が受けたものだからこそ議論がしやすい。だからこそ、さまざまな意見が生まれ批判もされやすい。ただ注意しなければならないのは、教育も変化しているということである。自分が受けた時代の教育と今行なわれている教育が同じではない。
特に大学は駄目だと言われるのは、その当時大学で受けた教育によるものだろうと思う。もちろん今でも駄目な大学は絶対にあるだろうが。
その変化を感じてもらう必要があるのかなと思っている。
はっきりとした案があるわけではないのだが、大学に来てもらう、アクティブラーニング型の市民講座を行うなど。
アクティブラーニングが完全に是だとは思わないが、講義タイプの授業が批判されるのに、市民講座は講義タイプが多い気がしたので思った次第。