日々綴(とある私立大学職員)

日々思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も日々の思いをつらつらと(とある私立大学職員)

学費の適正な金額

 学費の適正な金額とは?

 ふと以下の記事を見て思った。

【ニュース・アメリカ】大半の米国大学、労働・中産階級の米国人にとっては手の届かない存在 | JSPS海外学術動向ポータルサイト

 本報告書は、学生が週10時間労働し、家族が可処分所得の10%を10年間貯金した場合に、正味学費の支払が可能となる大学を適正価格の大学の基準とし・・・

 

 私は財務や会計系の部署に所属したことがないため、学費の根拠についてあまり詳しくないが、大学に勤めている側からすると、学費は年間登録上限単位数や施設の更新費、恒常的な設備費用等々から来ていると思う。

 

 一方で、上記のような一般家庭の所得から、適正な学費負担を探るという考え方もあるのだなと思った(報告書の本書を読んでいないので、実際にいくらになるか等は不明だが)。それ以上必要な大学ももちろんあろうが、それに関しては奨学金、あるいは補助金という考え方もあっていいのかなと思う。

 

 あくまで記事紹介まで。

適材適所

 とある大学の職員の方の話。

 大学では大きな災害(豪雨災害や地震等)が起きたとき、その地域に住む学生に奨学金を援助したり、緊急の貸与を行ったり、学費の減免を行ったりする。

 学費に関する奨学金などでは、形式上、学生に一時的に金銭を渡し、それをまた納入してもらうという手続きをとることがある。その際、学生がこのお金があれば…とふと声を漏らしたことがあり、なんとも言えない気持ちになったとの話を聞いた。このお金があればもっとできることがある。そう漏らした学生に気持ちが揺さぶられるのはすごくわかるなと思った。

 その職員に対しては、その時は感受性が高いんだな。優しい人なんだなと思った。

 

 時間をおき思い返してみると、こういう個人の資質(性質?)から適所への職員の配置を考えることができるのではないかと思った。

 

 感受性が高いということは相手の立場に立てる人なわけで、教務だったり学生部、あるいはハラスメントの被害者に寄り添ったりする人事などが向いている適所と言えるのではないだろうか。一方で感受性が高すぎる場合は、それによって自らを傷つけることもあり、その場合適所は変わってくる。

 

 大学職員は総合職で採用されることが多い。ある意味どこでもなんでもしますという何でも屋、便利屋のような扱いを受けたりもする。他の職でも総合職採用は多いだろうが、大学職員ほど幅広い職務をこなす職というのも珍しいのではないだろうか。部署が変わるとほぼ転職と同じと言われる職。この職以外に就いたことがない私には正確な判断はできないが、珍しい職ではないかと思う。

 

 現在、大学行政においては、SD(職員の能力開発)が義務化され、頻繁に議論されている。このSDとともに職員の適材適所も一緒に議論されてしかるべきなのかなと思う。総合職で行う業務が固定化されていない大学職員だからこそ、個人の能力とは別に、個人の資質に応じた適材適所への配置を探ってもいいのではないかなと。もちろん同質の職員ばかりが集まってしまうと、対応が一辺倒になったり、イノベーションが起きづらかったりという弊害はある。適所と共に協働する職員同士の組み合わせも大事だ。

 

 私はSDよりもこちらの適材適所への配置の方に関心があり、個人の資質や性質による適所、またどうしても合わない人というのもいるので、そうした「人同士の組み合わせ」というのももう少しなんとかできないかなとふと思った次第。

苦言を呈してくれる人の重要性

 組織にとってちゃんと苦言を呈してくれる人というのは本当に大事だと思う。

 

 主に雰囲気を壊すだったり、関係性を悪くしたりしたくないからという理由であえて苦言を言わない人というのはいるが、それでは組織が方向性を誤ってしまったり、組織自体の存続が怪しくなったりする可能性がある。そういうなかで苦言を呈してくれる人というのは貴重な存在だ。

 

 もちろん感情論ではなく、ちゃんと理論的に筋の通った苦言であることが重要で、ただただ反対する人ではない。苦言を呈する人だって雰囲気を壊すであったり関係性を壊してしまったりということは可能性として考えてはいる。それでも、その組織の在り方やその組織の将来、そしてそこに所属する人や関係する人のために言わなくてはいけないという想いがあって言ってくれている(そういう人ばかりではないこともわかってはいるが)。

 

 そんな苦言をちゃんと言ってくれる人を近くに置けるかどうか。また、その苦言をきちんと受け止められるかどうか。トップの懐の大きさはそういうところに現れるのではないか。

 

 少々思ったことがあって書いてみました。

常識(当たり前)の違い

 自分の常識(当たり前)が人と違うことはよくある。

 自分が平気なことでも相手が不快に思うこと、もちろんその逆もある。

 そういうときに大事なことってすり合わせ(?)や話し合いだと思う。それができる相手であるかどうかというのは大事で、そこでちゃんと嫌なんだと言ってくれる、また言える人は貴重だし、その後も付き合いを続けたいと思う。

 

 自分にとって言ってほしくないことがあるように、相手にとってもそう。以前のやり取りを思い返してそう思う。何が不快に思われるかはわからず、そういうことばかり気にしていたらコミュニケーション取れないけれど、そういう意識は持っていたいなと思う。

 

 そういえば留学中も色々あったなと思い返す・・・成長できていないんだろうか。

人からの影響

 どんな人であっても周りからの影響を全く受けないということはない。

 考え方ややり方、言葉づかいなど、いつの間にか影響されている。

 残念ながらネガティブなものほどうつってしまいやすいというというのが私の印象だ。特に私のように自分に自信がなかったり、自分という軸がグラついている人には。

 

 以前、PKという小説について書いた。

hibiblog.hatenablog.com

 まさにその通りだなと思う瞬間、できるだけ自分の周りにはポジティブなものを置きたい。自分の好きなものを置いておきたいと思った。

 なおかつ自分も、できるだけプラスの言葉が発せられるよう、できるだけ否定の言葉は避けるよう努力していきたいなと思う。自分も自分の発する言葉に影響される。せめて自分の周りは心地よい言葉、ものを。

研修メモ(IR関連)

 メモの前に、ここ最近、Twitterが荒れていた(?)ことを謝罪いたします。ある方からもブラックだったと言われ反省しております。相手は何も思っていないのに、自分だけが落ち込んでても仕方がないので。

 

 さて、とあるIRの会に参加をいたしました。IRは私の専門ではなく、門外漢がすごかったのですが(苦笑)、色々と思うことはありました。会の内容等に触れるとあまり宜しくない面もあるかと思いますので、私なりの感想や疑問点のみ記載します。そのため、あくまでメモの類である点ご容赦ください。

 

○IRについて

 ・教学系のIRはなんとなく出尽くした感があるのではないだろうか。

 概ねデータを取る場所は、入学時、途中の成績、卒業時、卒業後等、一定の場所ないしは特定の時期になる。そのため、IRというものに意味はあるものの、これからの劇的な変化は起き得ず、それらから得たものからの改善であったり、大学間の共通事項、ある大学独自のものというように、ある程度収束していくのではないだろうか。まだIRを作っていない大学などは、別の大学がやっている方法を真似れば、ある種のシステムのように、ほぼほぼパッケージ化されたものが導入できるのではないかという印象。一方でその他のIR(評価や経営等)については、特に私学ではまだ発展の余地はあるのかなという印象。

 ・倫理面についての不足感(不安感)

 IR=良いものという印象、導入すべきだという議論に偏っていないだろうか。

 FERPAと言われる学生データの取扱(あまり詳しくありません)

 執行部の恣意的な使用に対する倫理教育

  執行部の意向に沿った情報のみを公開したり、不都合な情報は不開示としたりする状況

 IR担当者の倫理教育

  上記執行部と同様に、不都合な情報から目をそむけたり、執行部の意向を忖度してしまったりする状況

 IR担当者の独立性

  職業倫理として、執行部が不都合な情報を隠そうとした時に、それに対して職業倫理として立ち向かうべきところもあるので、一定程度の独立は必要ではないか。

 ・システム改修との連携

  一定期間(概ね5年)に一回システムのリプレイスが行われることが一般的なので、それに合わせて、データの仕組み(様式)を合わせたりすると、IR担当者がデータを加工する手間が省け、スピード感も出るので、そうした改修との連携は大事だろうなと思う。

 ・IRで楽をしようという思いもあっていいのでは

  現状の仕事を少しでも楽にしようと思うと、データベースを作っておき、そこから必要な情報を取るのが早い。特に教員の業績や調査回答など。そうした意味で、少し今の仕事を楽にしようという思いからIRがあってもいいのではないかと。少し力を抜いて導入してもいいのかなと思う次第。

 

 なんとなく頭に浮かんだのは、日本が経済発展してきた際に公害が起き、それが現在中国でも起きていること。この経済発展と同じように、IRでも負の側面に後から気付いてしまいそうな感があるなと。あくまで私感です。ただお話をさせていただいた方の中に同じような考えを持つ方がいて、非常に心強く思いました。

 

○質保証について

 ・科目のナンバリング

 単位互換を前提として作られている制度なので、現状の日本のように、各大学でバラバラのナンバリングは恐らく意味がない。カリキュラムマップはツリーで十分。ただし、科目の順次性、難易度を示すものには使えるようだ。

 

 

 IR自体が専門職と言われたり言われなかったりするが、これは日本のジョブローテによるものだとも思われる。ジョブローテしても業務がなんとか回っている。専門職ではなくて良いのでは?という考えではないかなと。ジョブローテ自体良い面も悪い面もあり、動かされる方にとっては部署次第でほとんど転職のような状況である。専門職系と将来の幹部候補のようにいくつかのパターンがあってもいいのではないかという印象。

 

 それと、日本の場合であるが、問題や課題が見つかった場合、そこを改善しないと指摘をされるイメージがある。それはそれでいい面かもしれないが、緊急性がない場合は限られたリソースのなかで、今は置いておくという判断もあっていいんじゃないかなと。

 

 最後に個人的な感想。

 Twitterにも書いたが、情報交換をさせていただくなかで、なぜそう思ったのか?と聞かれ回答に困ったことがあった。加えて大学院進学を勧められたが、思考がどうやらそっち側らしい。どちらかと言うと、思考が変わっていると言われる方だったので、そっち側なのかとある意味嬉しかった。勧められたのは広島、熊本、桜美林etc...

 考えてみよう。

 

 メモなので雑多ですがご容赦ください。

上に立つ人に必要なもの

 上司となる人間に必要なものにはいくつかの定義がある。

 それはもちろん知識であったり、下への配慮であったり下を育てる力、判断力などが挙げられるだろう。

 

 先日コミュニケーション能力が足りないと書いたが、それ自体は間違えではないものの、それよりも自分が平常(フラット)であることの方が重要だと思う。

 自惚れているのかもしれないが、自分がフラットであれば大抵のことには対処ができる。

 

 これも記載したことがあるかもしれないが、大変お世話になったある引退した職員の方に、お前は既に課長になるべき器だと言われたことがある。この時は一瞬喜んだものの、その後にさっさと部長レベルまで行けと言われた。

 

 上に立つ人に必要な能力というものを冷静に整理していけば、一般企業と大学でもそんなに大きな違いはないと思う。既にある程度整理や定義化されたものもあるのだろうと思うので、あえてここでは整理しない。

 

 じゃあ何が言いたいのかと言われると若干困るのだが、ただ単にここ数日で自分が思ったこと。上に立つ人間は、自分がフラットでいて、常にできるだけ冷静でいることとともに、人を引っ張る情熱というものが大事なのではなかろうか。

 

 子供っぽいようだが、人を引っ張り、その熱を伝染させ、組織を動かしていく。そんな人に自分は付いていきたいんだろうなと。

 

 その両方が自分にはまだ欠けている。特に冷静さ。

 

 冷静さが足りずご迷惑をお掛けしている方々、この場を借りてお詫び申し上げます。