日々綴(とある私立大学職員)

日々思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も日々の思いをつらつらと(とある私立大学職員)

大学職員ブロガー、ツイッタラー

 Twitterをご覧の皆さまはご存知かと思いますが、ただいま絶賛風邪ひき中です。土曜あたりから調子が悪く、喉と鼻から来ている模様。気温が急に下がったりしたからかなと思いますが、皆さんもお気を付けください。

 

 さて、標記の件もTwitterで呟きましたが、記録も兼ねてブログにも記載します。

 

 大学職員でブログやTwitterをしている方というのは、考えが深い方であったり、すごく優秀な方が多いので、研修や講演を依頼したいというつぶやきがとある方からあった。

 こういった界隈で優秀な方、優秀に思える方というのは、既にどこかで発表をしていたり講師をしていたりする。目立つ人はどこでも目立つし、優秀な方というのは大体どこでも優秀なのだ。

 

 Twitterやブログは匿名で書いてあることも多いが、上記のようにすでに名前が売れている方も多いことから、別のルートで知り合ったとすれば、研修等の依頼も全く問題ないのではないかというのが持論である。依頼者には名前を明かすことになるだろうが、その方にとっても業績、経験が積めて良い機会になるのではないか。

 

 大体講師依頼をするような人は、あの人かなと想像がつく。

 

 残念ながら、私には来ることはないので、さらに研鑽を積まねばと思う次第。

 一緒に何かしようというお誘いは大歓迎です。

切り替え

 少々色々あって落ち込んでおりました。

 以下大学関連ではないので興味のない方は読み飛ばしてください。

 

 自分にとってきつい言葉を投げかけられた時、相手は平気な場合とそうでない場合があって、相手の表情だったりを見ると、今回は後者だったのかなと。言葉もそうだけれども、その表情や様子が物語るものって強いものがある。だからこそ襲ってきた後悔。

 

 自分が犯した過ちだったり、やってしまった事だったりというのは、もうないことにはできないけれど、これからどうするかが大事だなと切り替えるよう心を整えているところです。

 相手にとって自分はマイナスイメージが焼き付けられたのかな、なんてことを思ったりするものの、あとは自分が自分の中でこれらをどうプラスにできるかかなと。

 

 感情に浸る時間も必要。けれども、切り替えて前に進む。そう言い聞かせる。

第21回大学行政管理学会総会(@西南学院大学)に参加

 少々色々あり落ち込んでいるものの、こういうときこそ何かしないとより落ちる気がするので、ブログを更新することにした。

 

 標記の総会に参加してきた。

 詳細な内容は松宮氏等、TwitterのTogetterにまとめられると思うので、こちらでは触れないが、2日目の分科会2で2-6-2の法則について触れられた。具体的には、6や下位と言われる2をどうするかということ。

 

 法則自体は理解しているものの、人には当てはまらないこともあるのではないかと常々思っている。もちろん組織の中には優秀な層がいれば、そうでない層もいる。それ自体はそうなのだが、組織全体として個々人の個性が発揮しされている組織も見られる(外から見ているからそうだといわれればそうなのかもしれないが・・・)。

 多様性や個々人の能力を発揮するような組織運営をと思っている身としては、管理職の方々には2-6-2が当てはまらないような組織をという意識でいてほしいなと。

 

 もちろん叩いてもだめな人、逆に人の邪魔する人なんかも組織にはいるものの、それらをどうするか。そのやり方を考えたいなと思う。そこに労力を割くくらいなら上位の2割にという意見もあろうが、考え方や組織の在り方で変えられるものもあるのではないかと。

 例えば、募金を絶対にしない人を募金の募集担当にすると、ほぼ必ずと言っていいほど募金をする。募金集めに行った際に、自分がしているか問われたりすることがあるからだ。そして、恐らくではあるが、一度募金募集の苦労を味わった人の多くは募金を継続する。

 上記のように、人の配置、担当業務の体験による職員の意識の変化等で変えられるものもあるのではないかと私は思う。

 もちろん100%は無理だが、0ではない変化を起こすことって大事なんではないかなと。

 

 常識を疑う、常識を覆す面白さなんかを持っていたいなと。

ゼネラリストとスペシャリスト

 今週末からJUAM(大学行政管理学会)の総会が開催される。さまざまな学びが楽しみなのとともに、不安がある。不安についてはここでは触れられないが、なんとか乗り切れれば(?)と思う。

 

 さて、標記の件、さまざまな場でも既に議論されているものであるが、少々思うことがあったので書きたい。

 

 大学職員の間で議論されるゼネラリストとスペシャリスト。一時期大学職員の専門職化の議論があった際は、スペシャリスト化が進むものかと思われたが、いつの間にか立ち消えとなった。これはスペシャリスト化しないまでも、対応できるレベルであるということと、本当に専門職化するのであれば、専門の教員を雇うといった方向であろうと理解している。

 

 大学職員はゼネラリストが良いという議論は、広くその法人を知り、将来の執行部を育てる。あるいは、その法人を広く知ることで、法人全体を意識できるようになること、広い知識の組み合わせから新たな分野をつくりだすことなどが狙いだろうと思われる。

 

 一方で私自身はスペシャリストになりたいと思っていて、最近話題のAIを考えてみると、そういった広い知識は必要であるものの、仕事そのものをとってみると、すぐ代替されてしまうのではないかと思う。また、昨今の激しい(?)教育行政の移り変わりから、知識の陳腐化も早く、異動を繰り返すと前の知識が使えないことも多くなるのではないかという思いもある。

 もちろん根本は変わらないことも多く無駄になるわけではない。

 また、これも個人的な意見というか思いではあるが、職員の仕事は誰にでも一定レベルでできるよう、マニュアル化、システム化、陳腐化すべきだという思いも一方ではある。

 

 私が所属する大学は、ゼネラリスト志向の大学であるが、異動させられる職員からとってみると、全く関連の無い分野への異動も多く、転職のような状況も多く見受けられる。ゼネラリストという考え方自体は悪いとは思わないが、もう少し関連した分野への異動であったり、またその人個人の思考も大事にしてほしいなと思う。

 

 なんともまとまりのない記事だが、書きたい内容はとりあえず書いた。

 もう少し頭整理して書けばよかったかもとも思いつつ。

 

 あー異動したい(笑)

学費の適正な金額

 学費の適正な金額とは?

 ふと以下の記事を見て思った。

【ニュース・アメリカ】大半の米国大学、労働・中産階級の米国人にとっては手の届かない存在 | JSPS海外学術動向ポータルサイト

 本報告書は、学生が週10時間労働し、家族が可処分所得の10%を10年間貯金した場合に、正味学費の支払が可能となる大学を適正価格の大学の基準とし・・・

 

 私は財務や会計系の部署に所属したことがないため、学費の根拠についてあまり詳しくないが、大学に勤めている側からすると、学費は年間登録上限単位数や施設の更新費、恒常的な設備費用等々から来ていると思う。

 

 一方で、上記のような一般家庭の所得から、適正な学費負担を探るという考え方もあるのだなと思った(報告書の本書を読んでいないので、実際にいくらになるか等は不明だが)。それ以上必要な大学ももちろんあろうが、それに関しては奨学金、あるいは補助金という考え方もあっていいのかなと思う。

 

 あくまで記事紹介まで。

適材適所

 とある大学の職員の方の話。

 大学では大きな災害(豪雨災害や地震等)が起きたとき、その地域に住む学生に奨学金を援助したり、緊急の貸与を行ったり、学費の減免を行ったりする。

 学費に関する奨学金などでは、形式上、学生に一時的に金銭を渡し、それをまた納入してもらうという手続きをとることがある。その際、学生がこのお金があれば…とふと声を漏らしたことがあり、なんとも言えない気持ちになったとの話を聞いた。このお金があればもっとできることがある。そう漏らした学生に気持ちが揺さぶられるのはすごくわかるなと思った。

 その職員に対しては、その時は感受性が高いんだな。優しい人なんだなと思った。

 

 時間をおき思い返してみると、こういう個人の資質(性質?)から適所への職員の配置を考えることができるのではないかと思った。

 

 感受性が高いということは相手の立場に立てる人なわけで、教務だったり学生部、あるいはハラスメントの被害者に寄り添ったりする人事などが向いている適所と言えるのではないだろうか。一方で感受性が高すぎる場合は、それによって自らを傷つけることもあり、その場合適所は変わってくる。

 

 大学職員は総合職で採用されることが多い。ある意味どこでもなんでもしますという何でも屋、便利屋のような扱いを受けたりもする。他の職でも総合職採用は多いだろうが、大学職員ほど幅広い職務をこなす職というのも珍しいのではないだろうか。部署が変わるとほぼ転職と同じと言われる職。この職以外に就いたことがない私には正確な判断はできないが、珍しい職ではないかと思う。

 

 現在、大学行政においては、SD(職員の能力開発)が義務化され、頻繁に議論されている。このSDとともに職員の適材適所も一緒に議論されてしかるべきなのかなと思う。総合職で行う業務が固定化されていない大学職員だからこそ、個人の能力とは別に、個人の資質に応じた適材適所への配置を探ってもいいのではないかなと。もちろん同質の職員ばかりが集まってしまうと、対応が一辺倒になったり、イノベーションが起きづらかったりという弊害はある。適所と共に協働する職員同士の組み合わせも大事だ。

 

 私はSDよりもこちらの適材適所への配置の方に関心があり、個人の資質や性質による適所、またどうしても合わない人というのもいるので、そうした「人同士の組み合わせ」というのももう少しなんとかできないかなとふと思った次第。

苦言を呈してくれる人の重要性

 組織にとってちゃんと苦言を呈してくれる人というのは本当に大事だと思う。

 

 主に雰囲気を壊すだったり、関係性を悪くしたりしたくないからという理由であえて苦言を言わない人というのはいるが、それでは組織が方向性を誤ってしまったり、組織自体の存続が怪しくなったりする可能性がある。そういうなかで苦言を呈してくれる人というのは貴重な存在だ。

 

 もちろん感情論ではなく、ちゃんと理論的に筋の通った苦言であることが重要で、ただただ反対する人ではない。苦言を呈する人だって雰囲気を壊すであったり関係性を壊してしまったりということは可能性として考えてはいる。それでも、その組織の在り方やその組織の将来、そしてそこに所属する人や関係する人のために言わなくてはいけないという想いがあって言ってくれている(そういう人ばかりではないこともわかってはいるが)。

 

 そんな苦言をちゃんと言ってくれる人を近くに置けるかどうか。また、その苦言をきちんと受け止められるかどうか。トップの懐の大きさはそういうところに現れるのではないか。

 

 少々思ったことがあって書いてみました。