日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

LGBTについて

 LGBTについて、少し考える機会があった。考え方の違い等も大きい分野だと思うので、見ていて不快な気分になった方がいれば、途中で読むのをおやめください。

 

 なお、当初は踏み込んだ記事を書こうと思いましたが、あえて人が不快になるかもしれないことを書くのはどうなのだろうと悩み、下書きを書いては消してを繰り返しました。そのため、内容自体が薄いものになっているかもしれません。

 

 自分自身は男性で、恋愛対象は女性という世間的にはマジョリティとされる方であり、正直なところ、LGBTについてすべてを理解できない面もある。これまでそういう人がいるということは知っていて、なんとか理解しようとしてきた。ただただ好意を持つ対象が自分とは違うだけ、一つの個性、単なる違い、などなど。

 そう思おうとはしつつも、自分が理解できないものを落とし込むのは難しいなと感じていた。

 

 そんなことを思っていると、次のような記事を見つけた。

絶賛炎上中の「LGBTが気持ち悪い人の本音」記事はなぜ完全にダメなのか | BUZZAP!(バザップ!)

 この記事の中で触れられた言葉で少し救われた気がした。

 LGBTを「理解」する必要は無い
そしてこの男性を含め、多くの人が勘違いしているのが、LGBTを差別しないためには「理解しなければ」ならないと考えていること。このふたつは全然別問題なのですが、なぜかひと繋がりのこととして捉えられがちです。

(中略)

 「何も関わらない」で全く問題ありません。理解もせず、差別棒も振り回さず、何も関わらずに生きればいいのです。この男性がわざわざ当事者に対する偏見を消そうとする必要もありませんし、当事者の苦しみに寄り添う必要もありません。

(中略)

「心にどれだけ差別が巣食っていようと、それを実際の言動で表現しない」

 

 ただただ嫌いなことをわざわざ嫌いと言わなくてもいい。わざわざ人を不快にさせる必要はない。理解できないものがあることを理解することが大事なのだろうと思う。

 

 そういえばたまに口ぐせではないけれど、クッション言葉(?)で「聞いたら嫌かもしれないけれど」というのを使うことがあって、なら言うなよと言われたことがある。人が嫌がると思うことは言わない姿勢はいいなと思ったのだが、と同時に、自分と他の人との認識の違いや好き嫌い、価値観の違いがあることもあってクッション言葉(?)を使った面もあって、言葉って難しいなと思ったのを覚えている。余談です。

 

 話が逸れたがLGBTについて。

 ニュージーランドの議会で同性婚を認める法律ができた際に称賛されたスピーチがある。私は英語ができないため、他の方が翻訳されたブログをまた引用させていただくが、このスピーチを聞いた際(正しくは翻訳された日本語を読んだ際)、そんなに難しく考える必要はないのかな、自分に害がなく、それでいて誰かの幸福度が上がるのならそれを認めていいんじゃないだろうかと思ったのを覚えている。

www.huffingtonpost.jp

 互いへの干渉を少し和らげて、嫌いなことではなく好きなことにより目を向けると世の中もっとよくなるのかもしれない。