事務手続き等について
日本の社会は生産性が低いと言われる。
これは私なりの解釈であるが、日本の場合、ひらがな、カタカナ、漢字に加え、英語での入力もあったりして、単純にパソコンの入力だけでも生産性が低くなるのは当然だと思っている(漢字社会の中国の入力の仕方は把握してないが)。
もちろん上記だけでなく、事務手続きなんかが多いのもその理由だ。かくいう大学も事務手続きは非常に多い。本当にそうした手続きが必要なものかどうかというのを考える必要がある。
ツイッターで大阪大学の菊池誠先生と、治部れんげさんという方が非常に的を得た指摘をされている(勝手に引用させていただきましたm(_ _)m)。
どんなに厳格に確認したって、不正をする気がある人はやるんだよ。「不正は起きる」という前提で、起きた場合の対策を立てるのが筋。未然に防ぐために普通の人たちの手間を限りなく増やしていく組織は既に終わっていると思う
— 菊池誠 (@kikumaco) 2015, 8月 13
岡山大不正疑惑の件でもう一言。たまに大学と仕事をすると、性悪説に基づいた非効率な事務&振込手続きにうんざりします。科学研究費不正など起こるたび、悪事をはたらいた人を充分罰しないで、大半の関係ない人の活動の事前チェックを厳しくする。完全に間違っている。→
— 治部れんげ (@rengejibu) 2016, 1月 14
何らかの不正が起こった場合、日本ではそれが繰り返されないよう対策をする。それ自体は間違っていないし、失敗から学ぶことは大事である。しかし、一方でそれによって増えるコストについての意識があまりにないような気がする。ある一定程度の手続きなり、締め付けは致し方ないものの、やりすぎてしまうとそれが生産性を下げる。
日本では時間がコストだという意識が低い。特に大学内では、学内であるにもかかわらず、起案決済、公印を押した文章の提出が求められるだの、クレジットカードの使用はできないから立て替え払いをしてくれだの、毎年同じことをやっているのに文章を出してくれだの本当に事務手続きが多い。
そうした時間に対するコストを考慮すると、非常に浪費が多いと言える。調査関係(会計検査なり、私学事業団の実地視察なり)に備えた書類は揃えておく必要があろうが、そうではない学内だけの書類は簡素化すべきだと考える。これは職員の役割だ。
教員の研究時間の確保が問題になるなかで、いかに時間を含めたコストを削減、有効活用していくかが大学には求められている。教職協働が叫ばれる中で、教員には如何に教育や研究に専念してもらえるようにするかというのが個人的には大事だと思っている(全教員がそうではなく、教育や研究熱心ではない教員も残念ながら中にはいるが)。そうした選択と集中ができるかも、大学の生き残りを左右していくのではないだろうか。職員のできることはまだまだある。