卒業式等での国歌斉唱について
馳大臣が、国立大学で国歌斉唱をしないことに対し以下の批判をした。
この中で、国費が投入されているからという理由が述べられているが、私大も補助金というかたちで国費は投入されている。であるならば、私大においても国歌斉唱をせよという考えなのだろうか。
どこかで見たどなたかの考えだったと思うが(思い出せない)、愛国心というのはわざわざ語るものではなく、強制されるものでもない。私はこの考えに共感しており、このように言及すべきではないと思っている。また、グローバル化が進んでいる現在、これらに不快感を覚える学生もいることであろう。特に日本は、中国や韓国など、歴史的見解の違う国からの留学生も多い。こうした背景にも留意する必要がある。
この件については、何人かの方がTwitterで発言しており、私が共感を覚えたものを引用させていただきたい。全てが大阪市立大の増田准教授が呟いたりリツイートしたものであるが。
文科相が「国費投入してんだから、君が代歌え」っつーことは、「愛国心は金で買える」と、文科省は考えてるんだろうな。
— 菅野完 (@noiehoie) 2016, 2月 23
ついでに言うと、毎年運営交付金減らすってことは、愛国心も毎年減らしていいんですよね。
— Daisuke Tano (@tanosensei) 2016, 2月 23
いつからオレの愛するこの国は「教育費支出の対価として君が代を歌わせる」ような情けない国に成り下がってしまったのだろうか。冬空を哀しく眺めるのである
— 増田聡 (@smasuda) 2016, 2月 23
文科省が「金で大学は動く」という経験則に居着くようになったのは21世紀に入ってからだと思います。それまでは曲がりなりに教育行政上の指示には「科学的理由」らしきものが示されていました。「シラバスを書け」と言い出したときからですね、文科省が行政命令の根拠を一切示さなくなったのは。— 内田樹 (@levinassien) 2016, 2月 24
「シラバス」というのは商品の仕様書をモデルにしたものです。それが開示されることで教育効果がどれだけ上がるかについて文科省はエビデンスを示したことがありません。科学的理由のまるでないこの行政命令を出したときに、文科省は「いやなら金をやらん」という恫喝を採用しました。
— 内田樹 (@levinassien) 2016, 2月 24
そのとき文科省は「大学人は金で動く。科学的根拠のない指示でも、『金をやる』といえばどんな大学でも実施する」という大学観を語ったわけですけれども、そのとき以来文科省は「あらゆる人間は金で操作可能である」というみすぼらしい経験則を以て教育原理の根本に据えることになりました。涙。
— 内田樹 (@levinassien) 2016, 2月 24
さて、私の考えだが、岐阜大学も言及しなければいいのではないかとも思う。
日本には、言葉にしない厳かさ、慎み深さというものがある。わざわざ言葉にしたりする必要はないでしょう。いつも慮ってますから、わざわざやりません。というような態度では駄目なのだろうか(表面上は)。もちろん、グローバル化という上記の理由から、無用な争いは避けたい旨添えて。
今回大学の自治にはあえて触れなかったが、自治とは別にして強制されるものではないと私は思う。