日々綴(とある私立大学職員)

日々思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も日々の思いをつらつらと(とある私立大学職員)

大学生は大人なのか。

 大学生とは大人なのか。この議論は18歳に投票権が与えられた時によく議論されていたと記憶している。

 

 大学内においては、大学生を大人として扱うという名目で、自ら情報を取るよう指導したり、手続きの締め切り等の厳守、窓口での態度の注意、規範を持った行動等を求めているところもある。その一方で、手厚いケアをしている大学も多く、そうした大学については、大人なのだからそこまでする必要はないとの指摘もある。果たしてどうなのだろうか。

 

 大学にとっては、大人として扱うほうが楽だ。自分でやりなさい。一人の大人なのだからできて当たり前。そんな言葉も所属大学ではよく聞く。

 

 しかし、大学生とは大人と子どもの中間という捉え方ではだめなのだろうか。

 

 大学とは社会に出る前の最後の準備期間でもある。もちろん中学、高校を卒業してすぐに社会に出る人もいるが、その人たちが社会に出てすぐに”大人”となれたかは議論があるところではないだろうか。社会に揉まれる中で大人になっていく側面もあると思う。

 

 これだけ高等教育への進学率が高まっている現在、また実際に大人になりきれていない学生が実際にいる現状、すぐに大人として扱うには限界がきているのではないだろうか。もちろん、それぞれの大学に入学する層によっても違うという議論もあるだろうが、そんなに学生に求めなくてもと思う次第。

 

 少々色々あり、なんとなく文章が乱れている気もしますが、ご容赦ください。

コミュニケーション

 コミュニケーション能力、よく言われる言葉だが自分にはこの能力が足りないようだ。

 Twitterでも書いたが、発想が人と違うと言われることがよくある。この意味は、プラスに捉えれば独創的、創造的。マイナスに捉えれば変わっている、偏屈なんてことになるだろうと思う。発想が違うこと自体は悪いことではなく、さまざまな意見があった方が多様性が担保できる。しかし、そこにコミュニケーション能力が足りないと結構キツイものがあるなと最近思う。

 つまりは和を乱すであったり、人から理解されづらい、そんな面が自分にはあるのだと最近つくづく思う。

 

 採用学においては、コミュニケーション能力は伸びやすい能力とされている。さまざまな知識を得ること、自分の興味関心の向いたことに力を注いできたが、コミュニケーション能力をつけることも学ぶ必要があるなと感じる次第。

女性のキャリアについて

 女性のキャリアについて、以下のブログでも記載されているが、私なりに思うことを記載したい。 

photon28.hatenadiary.jp

 

 女性のキャリアの中断と言うと、産休育休によるものである。私が男で、且つ不勉強だからこれ以外思いつかないのかもしれないが、これ以外にあったら教えて欲しい。

 

 育休産休によってキャリアが中断されるという言い方は、なんとなく子どもを障害のように扱っているようで嫌なのだが、それはさておき。これについては、大学教員も同じである。一定の時期研究が中断されるというのは、なかなか大きなハンデである。実際に私の知っている女性教員の方は、育休をほぼほぼ取得せずに産休だけで復帰した。理系であるのが大きかったのかもしれないが。

 

 女性がキャリアを中断しないでいいようにするにはどうしたらいいか。

 単純に男性が育休をとればいいのではないかと思う。男性にとっては、育児に関わることで父性が芽生えるきっかけにもなるだろう。

 また、そもそも論として、ずっと休むのではなく、週の半分半分でお互いに育休を取るような働き方はできないのかなと思う。完全に休むのではなく、週3日ずつ働く等。

 (話が変わってしまうが、育休については、一定期間、男女両方が完全に休むというのもあってもいいのになと個人的には思う。それくらい重労働だと聞くので。)

 

 女性から見れば、男性に何ができるという部分もあるかもしれないし、母親だから自分がという責任感もあるかと思う。しかし、それは女性の雇用環境にとっても良くないのではないのかなと思うのだ。

 企業側、雇用者を雇う側からすると、多様性等の観点は別として、一定期間居なくなることが予想される女性を雇うよりは男性を雇った方が良いという考え方にならないだろうか。そういった企業が社会的にどうか、また就活生から選ばれるかどうかは別として、経営だけを見るとそうなるのではと思う。男性ばかりの雇った方が得じゃないか?と。

 

 現在の女性活躍が叫ばれているのは、女性の雇用、キャリアの問題であると思う。女性の役職者を何割!という目標を立てたり、ペナルティを与えたりするのではなく、どうすればキャリアを中断せずに済むか、また女性のみに負担(育児が負担とは言いたくはないが)を強いる状況を改善する方に目を向けたほうが良いのではないか。それらが改善すれば、自然と女性の役職者も増えてくるんではないかな。

外部研修等への参加

 この件、もしかしたら以前書いたかもと思って記事を検索してみたが、該当するようなものがなかった。もし見たことがある方がいたら同じような内容なので読み飛ばしください。

 

 自分が外部研修等へ参加するのには下記のような理由がある。

 1.その分野の知識を学びたい、聞いてみたい

 2.モチベーションの維持

 上記以外にも、業務命令を受けて参加する場合や、ただ単にどんなもんだろう?と思って参加したり、あるいは学内で募集があって、大学から旅費が出るからということもある。単純に外に出るのが好きな一面も。

 

 研修と言われると、学びに行くというイメージが強いかもしれないが、場合によっては仲間内での馴れ合いであったり、ただ単に交流を深めましょう。みたいなものもある。

 

 自分にとっては、上記1.の理由で研修等に参加したいが、行きたい研修と仕事のスケジュールが合わないことも多い。そんななかで、仕事に対してのモチベーションが下がった時は、2.の理由でなんでも良いからスケジュールが合うものに参加してしまえということで出かけたりする。そんな場合は馴れ合いや交流を深めましょうみたいなのに当たることも多い。

 ただ、そこから学べることも0ではない。また、モチベーションの維持には役立っている。

 

 色々な批判がある上記のような研修についても、何か学べるものはあると思うし、そうしたことをきっかけに学び始める人もいるのではないのかなと思う次第。

 

 もちろん、もっと良い研修に参加すれば学べることももっと!というのもごもっともだが。

大学職員の転職

 大学職員の転職、具体的には大学間の転職について考えることがあった。

 一時期実際に考えていたのだが、少々事情があり断念した経緯がある。今回再度考えたのは、ある会合の際に冗談で「○○さん(私の名前)を引き抜いてもいいか」という言葉をかけられたからである(「引き抜きたい」だったかもしれないが)。

 

 

 ごくごく稀にこういう思いがけない高い評価をいただくことがある。私の場合、実績なんかが無いわけで、人間性や立ち居振る舞い、努力する姿勢を褒めていただくことが多い。本当にありがたく、また今回は尊敬している方からの言葉だったので非常に嬉しかった。その評価に対し、実際の自分の実力、実績が足りないことに悔しさを覚えたが。

 

 大学職員としてのキャリアを考えた際、私自身、自分のやりたいことが全くできていない状況があって、本当に引き抜きがあったとしたら、恐らく転職を考えるだろうと思う。こういうことを言うと、現在の勤務先に帰属意識は無いのかとか言われるだろう。しかし、自分にやりたいことがあって、それができていない状況であったり、職場に恵まれていない状況(例えばパワハラや職員を育てる風土がない等)があったりする場合、果たしてそこにとどまるべきなのかと思うのだ。

 あと数年の我慢、なんてことも言われたりする。それはそれで正しいことなのかもしれない。けれども、その数年でできることを考えると悔しさを覚えることは事実だ。

 

 実際の大学職員の大学間の転職についてだが、専門職のような立場の人以外では、引き抜きというのはあまり見られないことだと思う。例えば、IRのような新しい分野等で実績を残している人や、ある大学で長年勤め退職された方の再雇用等以外ではあまりないのではないだろうか。大学職員の専門性が叫ばれるものの、職員は定期的な異動を伴うこともあって、外部から引き抜く程の専門性、あるいは緊急性や必要度とも言うべきか、そういうものはあまり無い気がする。保守的な部分や、引き抜かれる側と引き抜く側の大学間の関係性なんかもあるだろう。また、引き抜くよりは自分のところで育てるという意識もあるのだろうと思う。

 

 そういう意味では、私が掛けていただいた言葉は、社交辞令というものだと理解できる。自分の能力を過大評価しないよう、心がけたい。また、そのような評価をいただいたとしても、実際に一緒に働かないとわからないところもあるわけで、そんなに甘くはないということも心にとめておく必要がある。

 

 

 たまたま今日、「ちょっと今から会社をやめてくる」という映画を見に行った。ブラック企業の描写が酷く、こういう会社もきっとまだ日本にあるのだろうなと思った。

 日本の風土として、我慢を強いる部分が少なからずと感じるが、果たしてその我慢は本当に必要なことかどうかというのは考えるべきだと思う。最悪、仕事辞めたって何とかかんとか食べていこうと思えば食べていける。死ぬことよりは会社を辞めることの方が簡単で、生きていることの方がよっぽど大事だ。

 

 大学職員という職は、給与や身分が安定して人気の職だと言われている。しかし、そういうものに縛られて、そこから動けなくなってはいないかなということを考えさせられた。私の場合は教育に関われることをありがたく思っているし、常に最先端を求める教員の姿勢や学ぼうとする学生の姿に刺激を受けたりもする。しかし、そういったやりがいなんかを見つけられない場合、果たしてその場に身を置くべきなのだろうか。もちろん、仕事が食べていくための手段の一つであるという考え方もあろうし、他の人に仕事にやりがいを持てとは言えない。ただ、私はやりがいを持って仕事をしたい。

役に立つこと

 大学等の教育・研究機関は補助金等が投入されていることもあり、世の中の役に立つ成果が求められやすい。准公的機関、准公共財のような側面から、そうしたことも致し方ない部分はある。

 

 学内である教員と話をしていた際の話。

 成果が出そうだとか、世の中の役に立つとか、稼げそうとか、そういったことを否定はしない。けれども、そういうのは論理の飛躍がそんなに必要ない。安易に考えつくもので、発展する人工知能なんかに任せておけばいい。

 大学、もっというと人は、面白そう、やってみたい、知りたい。そんなことをもっと大事にすべきで、そういった人の根幹にある欲求の方が研究は続けられるし、思いがけないものから思いがけないものが出てきたりする。そういう面白いことをやりたいし、そういう姿を学生や未来の研究者には見せたいよね、と。

 余裕というか余白というか、上手く言葉にはできないけれど、そういうものが世の中からなくなってきている気がする。

 

 成果は大事だ。しかし、そういう余裕や余白も人として持っていたい。

女性活躍、留学援助、障害者支援・・・様々な支援について思うこと

 女性活躍、留学援助、障害者支援、生活保護・・・様々な支援について違和感を感じることがあった。その違和感について考えてみると、自分なりに考えが整理できた。あくまでも自分なりの考えをまとめたものである。(障害については、障がいという書き方もあるが、内閣府の『「障害」の表記に関する検討結果について』から障害を使用する)

 

 女性活用(活躍)については以下のエントリーでも触れた。

hibiblog.hatenablog.com

 

 平成28年4月に施行された「障害者差別解消法」。この法律における合理的配慮というものが、私の支援に対する考え方に近いものだと思う。

 この障害者差別解消法は、障害者に対する「不当な差別的取り扱い」を禁止すると同時に、合理的な配慮をするとしている。障壁を取り除く等、あくまでも”合理的な配慮”であることがポイントである。例えば難聴の学生にノートテイクを行ったり、施設のバリアフリー化を進めたり、教室移動が困難な学生のために教室変更を行ったりする例などがあるだろう。

 意訳すると、同じスタートラインに立てること、同じように競争できる環境をつくること、になるだろうか。

 

 有名な平等と正義(公平、公正)の図があるが、これに近い。

corobuzz.com

 

 様々な政策がとられるなかで、優遇をするのではなく、正義(公平、公正)であるかどうかということが大事ではなかろうか。もちろん芽が出るまでは優先的に援助するという萌芽的支援も必要ではあろうが、差を埋めることが主であって、優遇であるべきではないと私は思う。批判はあるだろうが。

 

 自大学についても言えることだが、数値目標等が独り歩きしていないか、それを達成することに躍起になってしまっていないか等、改めて考えるべきだと思う。

 

 歴史を振り返ると、社会が変わる時には、一時的にそうした弊害があるものだという意見もあるかもしれない。しかし、そうした弊害を少しでも少なくすることも、歴史から学ぶ努力をしたい。