日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

役に立つこと

 大学等の教育・研究機関は補助金等が投入されていることもあり、世の中の役に立つ成果が求められやすい。准公的機関、准公共財のような側面から、そうしたことも致し方ない部分はある。

 

 学内である教員と話をしていた際の話。

 成果が出そうだとか、世の中の役に立つとか、稼げそうとか、そういったことを否定はしない。けれども、そういうのは論理の飛躍がそんなに必要ない。安易に考えつくもので、発展する人工知能なんかに任せておけばいい。

 大学、もっというと人は、面白そう、やってみたい、知りたい。そんなことをもっと大事にすべきで、そういった人の根幹にある欲求の方が研究は続けられるし、思いがけないものから思いがけないものが出てきたりする。そういう面白いことをやりたいし、そういう姿を学生や未来の研究者には見せたいよね、と。

 余裕というか余白というか、上手く言葉にはできないけれど、そういうものが世の中からなくなってきている気がする。

 

 成果は大事だ。しかし、そういう余裕や余白も人として持っていたい。

女性活躍、留学援助、障害者支援・・・様々な支援について思うこと

 女性活躍、留学援助、障害者支援、生活保護・・・様々な支援について違和感を感じることがあった。その違和感について考えてみると、自分なりに考えが整理できた。あくまでも自分なりの考えをまとめたものである。(障害については、障がいという書き方もあるが、内閣府の『「障害」の表記に関する検討結果について』から障害を使用する)

 

 女性活用(活躍)については以下のエントリーでも触れた。

hibiblog.hatenablog.com

 

 平成28年4月に施行された「障害者差別解消法」。この法律における合理的配慮というものが、私の支援に対する考え方に近いものだと思う。

 この障害者差別解消法は、障害者に対する「不当な差別的取り扱い」を禁止すると同時に、合理的な配慮をするとしている。障壁を取り除く等、あくまでも”合理的な配慮”であることがポイントである。例えば難聴の学生にノートテイクを行ったり、施設のバリアフリー化を進めたり、教室移動が困難な学生のために教室変更を行ったりする例などがあるだろう。

 意訳すると、同じスタートラインに立てること、同じように競争できる環境をつくること、になるだろうか。

 

 有名な平等と正義(公平、公正)の図があるが、これに近い。

corobuzz.com

 

 様々な政策がとられるなかで、優遇をするのではなく、正義(公平、公正)であるかどうかということが大事ではなかろうか。もちろん芽が出るまでは優先的に援助するという萌芽的支援も必要ではあろうが、差を埋めることが主であって、優遇であるべきではないと私は思う。批判はあるだろうが。

 

 自大学についても言えることだが、数値目標等が独り歩きしていないか、それを達成することに躍起になってしまっていないか等、改めて考えるべきだと思う。

 

 歴史を振り返ると、社会が変わる時には、一時的にそうした弊害があるものだという意見もあるかもしれない。しかし、そうした弊害を少しでも少なくすることも、歴史から学ぶ努力をしたい。

健康管理

 ここ最近、外的要因、内的要因によって病院通いが続いている。

 まだまだ無理の利く年齢だと思っていたのだが、学内の仲の良い先生からは「体にガタが来てるんだよ(笑)」と言われる始末。30前半ってそんな年なのかとショックを受けながら、ごく当たり前だった、健康であることのありがたみを知る。

 

 少し時間を取って大きな病院で診てもらう必要もあるので、調整して休みをもらわなければ。

 

 先日、ありがたいことに、あるところから寄稿の話をいただいた。見てくれている人は見てくれているのだということを改めて知り、自信はないが前向きに考えたいと返事を返した。ただ、健康状態次第では断る必要もあるのかなと。若干の不安。

 

 体が資本。健康って大事。

久々にコラムを読んで心動かされた

 斉藤ウィリアム浩幸氏のコラムを久々に読んでみた。

 この方を知ったのは、日経新聞に掲載されていたコラムがきっかけで、毎回コラムが掲載される度に楽しく読んでいた。また連載をしていただければと思う。

 

 さて、今回読んだなかで、特に母校(高校)の卒業式でのメッセージが素晴らしかったので、紹介したい。

 氏が卒業した高校では100時間のボランティアが設けられているようで、その意味と意義について述べている。一部抜粋しても良かったのだが、意味が変わる可能性を考慮し、長文だがそのまま引用する。引用元は下記のとおり。

college.nikkei.co.jp

 

 今日のボランティアが、明日の世界をどれくらい変えるのか。それはわかりません。しかし、自信を持って言えるのは、ボランティアに費やした100時間は、確実にあなたを変えたということです。人のために何かをしたいという欲求は、現実社会に貢献する際のもっとも重要な動機のひとつです。ビル・ゲイツアンジェリーナ・ジョリーといった皆さんにとってのヒーローといえる成功者たちにボランティア精神が欠けた例はありません。正しい行いは、一生にわたって、皆さんの成功の一部になるのです。しかし残念ながら大学ではボランティア精神は教えられません。高校時代に教えられた皆さんは非常に幸運なのです。

 他人を助ける活動にたくさんの時間を費やす経験には、もう1つ利点があります。人生につまづきもう一度立ち上がろうとする時には、誰もが誰かの助けを必要とすることを理解することです。ボランティア活動に参加することで、皆さんは自分自身が必要になった時に誰かの助けを求めても良いのだと学ぶことができます。現実社会では、どんな天才や秀才にも、「もう自分だけの力では頑張れません、誰かの助けが必要です」というような危機が訪れるものです。皆さんは他人を助けるという行為を通じて、他人に助けてもらうための準備も整えることができるのです。

 時に、誰かに助けを請う勇気は、誰かを助ける勇気よりも大切です。皆さんは高校時代に、公平であることについても学ばれたかと思います。人生を公平にすることではありません。人生は、生まれや容姿や能力を見れば明らかなように、公平なものではないからです。人生は公平ではない。だからこそ、人を公平に扱うことは大切なのです。

 ボランティア活動をすると、このことをひしひしと肌で感じるようになります。公平であることは、ダミアン高校が皆さんに教えようとしている姿勢のひとつでもあります。それは大人が子どもたちに教える聞こえの良い決まり文句ではありません。公平であることは一つの生き方であり、他の人々を尊重する方法の一つであり、あなたの性格をつくる重要な特性のひとつとなるものです。

 公平である、という特性は、あなたを他の人々から際立たせ、差別化する要素になります。皆さんがこの特性を自分の人生にどう生かしていくか。それが、この高校の教育から得た重要な人生の指針のひとつになるでしょう。

 興味を持った方は、元のサイトで全文を読んでもらえればと思う。

 

 前回ブログに記載した奨学金を含め、生活保護等、様々な援助を議論する際、日本ではもっと頑張っている人がいるという議論が出る。また、そうした援助以外にもさまざまな場面で社会の不寛容さというキーワードも聞く。

 そんななかで上記コラムを読んで、「人生は公平でない」、「誰もが誰かの助けを必要とする」という言葉に心動かされた。助けが必要な時は助けが必要だという勇気ももっていいんだと。助けられた後は、またいつか違う誰かを助けてあげればいいんだと。

 

 そんな精神を持ち続けて生きていきたい。

奨学金について思うこと

 奨学金について、給付型奨学金や貸与型奨学金の種類がある。これについては、大学関係者からは給付型奨学金のほうが望ましいという意見が大勢を占める。一方で社会からの理解は進んでいない。このことは以前のエントリーでも記載したとおりである(カテゴリー奨学金参照)。

 

 奨学金は様々な有識者が検討をし、給付型奨学金の創設が決まっている。この奨学金の議論では、保護者等の所得が一つの判断材料とされるが、親の所得が高くても親との仲が悪く援助してもらえない学生、毒親とされる奨学金を使い込む親などで問題点も指摘されている。

 

 これに加えて私が思うのは、支払いを行う親の負担についてである。

 年功序列が崩れてきたとはいえ、まだまだ残っている企業が多い現在、親の所得に寄って援助が決まるということは、高齢出産の場合は親世代の負担は重くなるのではないか。同じ企業で勤めていたとしても、子をもうける年令によって親の賃金は違うわけで、生涯年収は一緒でも負担は違う。

 賃金が低い若年層のときにこそ、負担の軽減が必要だというのはわかるが、親の年令によって負担の差が出る。また、子供が多い場合、所得が多くても負担は思い。

 

 これからは親世代も自分たちの老後資金が不安な中で、子への援助負担は重い。

 

 上記のような観点からすると、大学無償化というのがより公平であると私は思う。ただし、より裾野の広い小学校のランドセル、絵の具などの学習用具、中学の制服等の必須経費の補助の方が優先順位は高いと思うが。

大学職員のキャリア

 新年明けましておめでとうございます。

 本当は昨年末に書き納めをしようと思っていたのですが、原因不明の頭痛に悩まされ、大晦日前日から年明け2日まで体調を崩しておりました。

 

 昨年はものすごくストレスのたまる一年だったので、今年は穏やかに過ごせたらと思っています。そのためには異動が必須かなと。

 

 なお、異動については国立と私立で大きな違いがあり、私立では未だに10年以上同じ部署にいる人も珍しくありません。一方で国立では1年ちょっとで異動することも多いようです。

 仕事を覚える→仕事を効率的にする→部署全体の仕事を効率化する

 上記に加えて他部署との連携などもありますが、こうしたプロセスを考えるとやはり一つの仕事を3年はやるべきかなと思います。そういった意味で国立は短く、私立は長い。3年~5年程度で定期的に異動するのがいいのかなと思います。適性がある場合はより長く・・・と思ってしまいますが。

 新人の間は、本人の適性を見ること、広く大学を知ることから、1つの部署は3年程度とし、様々な部署を経ることが望ましいと思います。立命館などはそのような考えから、10年目までに3つの部署を経るようなキャリアプランとなっているようです。

 

 ただし、適性がない場合や本人の希望等によっては3年に満たなくても異動はあってしかるべきだと思っています。私は現在の部署で2年ほどしか経っていませんが、適性がない!と言い切れるので、それを上がどう見るか・・・。はてさて。

久々の更新

 久しく更新していなかった。というのも、自分のやりたいことと今やっていることの乖離が大きく、それを受け入れられなかったことによるある種の疲れが出ていたからだ。

 

 職員の専門性が叫ばれて久しいが、学校法人という組織は将来の経営層、広く法人を見ることができる職員を育てる必要もあり、スペシャリストよりもジェネラリストを育てる傾向にあると感じている。

 実際に今自分の上にいる方々も、そうしたキャリアを送ってきており、スペシャリストが必要だという認識はありつつも、そうしたキャリアプランを作成できていないのだろうと思う。あるいは、スペシャリストが必要であれば外から人材をとればいいというような考えや、ある分野に人を貼り付けることに対するリスクからそういった傾向にあるのかもしれないと思っている。

 そういった意味で、大学という組織は変化が叫ばれつつも、あまり大きく変わらないのだろうなというのが私の認識だ。

 

 そんななかで、ほんの少しでも良いように変化させることができるように、自分にやれることをやるしかない。

 

 一方で、様々な部署を経験することで、広い知識は獲得できるものの、悪い言い方をすれば何の専門性もない、浅い知識しかない人材をつくってしまっていないか。そうした人に自分がなりつつあるのではないかという不安はつきまとう。

 活かされなくても学び続けるという意識は持っていたい。それが今後の自分をつくるものだと信じて。