日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

健康管理

 ここ最近、外的要因、内的要因によって病院通いが続いている。

 まだまだ無理の利く年齢だと思っていたのだが、学内の仲の良い先生からは「体にガタが来てるんだよ(笑)」と言われる始末。30前半ってそんな年なのかとショックを受けながら、ごく当たり前だった、健康であることのありがたみを知る。

 

 少し時間を取って大きな病院で診てもらう必要もあるので、調整して休みをもらわなければ。

 

 先日、ありがたいことに、あるところから寄稿の話をいただいた。見てくれている人は見てくれているのだということを改めて知り、自信はないが前向きに考えたいと返事を返した。ただ、健康状態次第では断る必要もあるのかなと。若干の不安。

 

 体が資本。健康って大事。

久々にコラムを読んで心動かされた

 斉藤ウィリアム浩幸氏のコラムを久々に読んでみた。

 この方を知ったのは、日経新聞に掲載されていたコラムがきっかけで、毎回コラムが掲載される度に楽しく読んでいた。また連載をしていただければと思う。

 

 さて、今回読んだなかで、特に母校(高校)の卒業式でのメッセージが素晴らしかったので、紹介したい。

 氏が卒業した高校では100時間のボランティアが設けられているようで、その意味と意義について述べている。一部抜粋しても良かったのだが、意味が変わる可能性を考慮し、長文だがそのまま引用する。引用元は下記のとおり。

college.nikkei.co.jp

 

 今日のボランティアが、明日の世界をどれくらい変えるのか。それはわかりません。しかし、自信を持って言えるのは、ボランティアに費やした100時間は、確実にあなたを変えたということです。人のために何かをしたいという欲求は、現実社会に貢献する際のもっとも重要な動機のひとつです。ビル・ゲイツアンジェリーナ・ジョリーといった皆さんにとってのヒーローといえる成功者たちにボランティア精神が欠けた例はありません。正しい行いは、一生にわたって、皆さんの成功の一部になるのです。しかし残念ながら大学ではボランティア精神は教えられません。高校時代に教えられた皆さんは非常に幸運なのです。

 他人を助ける活動にたくさんの時間を費やす経験には、もう1つ利点があります。人生につまづきもう一度立ち上がろうとする時には、誰もが誰かの助けを必要とすることを理解することです。ボランティア活動に参加することで、皆さんは自分自身が必要になった時に誰かの助けを求めても良いのだと学ぶことができます。現実社会では、どんな天才や秀才にも、「もう自分だけの力では頑張れません、誰かの助けが必要です」というような危機が訪れるものです。皆さんは他人を助けるという行為を通じて、他人に助けてもらうための準備も整えることができるのです。

 時に、誰かに助けを請う勇気は、誰かを助ける勇気よりも大切です。皆さんは高校時代に、公平であることについても学ばれたかと思います。人生を公平にすることではありません。人生は、生まれや容姿や能力を見れば明らかなように、公平なものではないからです。人生は公平ではない。だからこそ、人を公平に扱うことは大切なのです。

 ボランティア活動をすると、このことをひしひしと肌で感じるようになります。公平であることは、ダミアン高校が皆さんに教えようとしている姿勢のひとつでもあります。それは大人が子どもたちに教える聞こえの良い決まり文句ではありません。公平であることは一つの生き方であり、他の人々を尊重する方法の一つであり、あなたの性格をつくる重要な特性のひとつとなるものです。

 公平である、という特性は、あなたを他の人々から際立たせ、差別化する要素になります。皆さんがこの特性を自分の人生にどう生かしていくか。それが、この高校の教育から得た重要な人生の指針のひとつになるでしょう。

 興味を持った方は、元のサイトで全文を読んでもらえればと思う。

 

 前回ブログに記載した奨学金を含め、生活保護等、様々な援助を議論する際、日本ではもっと頑張っている人がいるという議論が出る。また、そうした援助以外にもさまざまな場面で社会の不寛容さというキーワードも聞く。

 そんななかで上記コラムを読んで、「人生は公平でない」、「誰もが誰かの助けを必要とする」という言葉に心動かされた。助けが必要な時は助けが必要だという勇気ももっていいんだと。助けられた後は、またいつか違う誰かを助けてあげればいいんだと。

 

 そんな精神を持ち続けて生きていきたい。

奨学金について思うこと

 奨学金について、給付型奨学金や貸与型奨学金の種類がある。これについては、大学関係者からは給付型奨学金のほうが望ましいという意見が大勢を占める。一方で社会からの理解は進んでいない。このことは以前のエントリーでも記載したとおりである(カテゴリー奨学金参照)。

 

 奨学金は様々な有識者が検討をし、給付型奨学金の創設が決まっている。この奨学金の議論では、保護者等の所得が一つの判断材料とされるが、親の所得が高くても親との仲が悪く援助してもらえない学生、毒親とされる奨学金を使い込む親などで問題点も指摘されている。

 

 これに加えて私が思うのは、支払いを行う親の負担についてである。

 年功序列が崩れてきたとはいえ、まだまだ残っている企業が多い現在、親の所得に寄って援助が決まるということは、高齢出産の場合は親世代の負担は重くなるのではないか。同じ企業で勤めていたとしても、子をもうける年令によって親の賃金は違うわけで、生涯年収は一緒でも負担は違う。

 賃金が低い若年層のときにこそ、負担の軽減が必要だというのはわかるが、親の年令によって負担の差が出る。また、子供が多い場合、所得が多くても負担は思い。

 

 これからは親世代も自分たちの老後資金が不安な中で、子への援助負担は重い。

 

 上記のような観点からすると、大学無償化というのがより公平であると私は思う。ただし、より裾野の広い小学校のランドセル、絵の具などの学習用具、中学の制服等の必須経費の補助の方が優先順位は高いと思うが。

大学職員のキャリア

 新年明けましておめでとうございます。

 本当は昨年末に書き納めをしようと思っていたのですが、原因不明の頭痛に悩まされ、大晦日前日から年明け2日まで体調を崩しておりました。

 

 昨年はものすごくストレスのたまる一年だったので、今年は穏やかに過ごせたらと思っています。そのためには異動が必須かなと。

 

 なお、異動については国立と私立で大きな違いがあり、私立では未だに10年以上同じ部署にいる人も珍しくありません。一方で国立では1年ちょっとで異動することも多いようです。

 仕事を覚える→仕事を効率的にする→部署全体の仕事を効率化する

 上記に加えて他部署との連携などもありますが、こうしたプロセスを考えるとやはり一つの仕事を3年はやるべきかなと思います。そういった意味で国立は短く、私立は長い。3年~5年程度で定期的に異動するのがいいのかなと思います。適性がある場合はより長く・・・と思ってしまいますが。

 新人の間は、本人の適性を見ること、広く大学を知ることから、1つの部署は3年程度とし、様々な部署を経ることが望ましいと思います。立命館などはそのような考えから、10年目までに3つの部署を経るようなキャリアプランとなっているようです。

 

 ただし、適性がない場合や本人の希望等によっては3年に満たなくても異動はあってしかるべきだと思っています。私は現在の部署で2年ほどしか経っていませんが、適性がない!と言い切れるので、それを上がどう見るか・・・。はてさて。

久々の更新

 久しく更新していなかった。というのも、自分のやりたいことと今やっていることの乖離が大きく、それを受け入れられなかったことによるある種の疲れが出ていたからだ。

 

 職員の専門性が叫ばれて久しいが、学校法人という組織は将来の経営層、広く法人を見ることができる職員を育てる必要もあり、スペシャリストよりもジェネラリストを育てる傾向にあると感じている。

 実際に今自分の上にいる方々も、そうしたキャリアを送ってきており、スペシャリストが必要だという認識はありつつも、そうしたキャリアプランを作成できていないのだろうと思う。あるいは、スペシャリストが必要であれば外から人材をとればいいというような考えや、ある分野に人を貼り付けることに対するリスクからそういった傾向にあるのかもしれないと思っている。

 そういった意味で、大学という組織は変化が叫ばれつつも、あまり大きく変わらないのだろうなというのが私の認識だ。

 

 そんななかで、ほんの少しでも良いように変化させることができるように、自分にやれることをやるしかない。

 

 一方で、様々な部署を経験することで、広い知識は獲得できるものの、悪い言い方をすれば何の専門性もない、浅い知識しかない人材をつくってしまっていないか。そうした人に自分がなりつつあるのではないかという不安はつきまとう。

 活かされなくても学び続けるという意識は持っていたい。それが今後の自分をつくるものだと信じて。

窓口業務の時間

 以前APU(アジア太平洋立命館大学)を訪問したときに、自大学とAPUで窓口の時間が違うことに驚いた。

 

 大体多くの大学は、勤務時間中と窓口が開いている時間が同一だと思うのだが、APUの場合、10-15時(私の記憶では)のみを窓口の対応時間とし、窓口が多くなる4月等に限っては窓口時間を長くとっているとのことであった。

 職員の方曰く、もっと時間が短くてもいいと思うとのこと。窓口が開いている時間が短いからといって対応の質が落ちるわけではないし、緊急の場合は入ってこれるようになっているようである。また、事務作業に集中する時間があって然るべきであるという考え方も持っていて、職員目線でもあるなと。

 

 窓口の時間が長いことをサービスだ、当たり前だと思っている常識が自分の中にあって、そうではないんだと思い直した。勤務時間中窓口を開けていたら、すぐ帰れるわけない。つまり、必ずどの大学でも必然的に少々の残業は生じてるんでは?なんてことも思った次第。こういうところ、各大学変えていっていいと思うんだが。

 

 大学の場合、育休産休等はともかく、それ以外の面では労働者である職員目線っていうのは結構欠けている気がする。少なくとも本学では。まあ権利ばかりを主張する職員もいるので、難しいところですが。

「大学」という場は不思議である

 大学職員として働いていて常々思うのだが、大学という職場は本当に不思議である。

 

 最先端のことを研究しているのにも関わらず、それが経営であったり運営であったりには全く活かされていない。あくまでも私見であるが、なかなか変わらないし、人の意見を尊重しようとする教員に限って人の意見を聞かなかったりするし、様々な無駄は多いし、個人の希望よりも組織の理由で人事なんてものは決まる(一部愚痴です)。

 

 例えば企業研究(経営等)や人材研究においても、大学の教員が研究していることが多い。にもかかわらず、それを大学で実践していることはほぼない。私はこのことを常々不思議に思っている。なんで自分のところでまずやらないの?と。

 

 もちろん大学という場が特殊な環境で一般とは違うということもあるのだろうが、一般企業も抱えている問題は大学も大体抱えてたりする。そうであるならば、大学が実践の場であってもいいのではないかと思うのだ。

 

 最先端のことを研究しているからこそ、大学こそ実践の場であるべきでは?なんて思うのだ。