日々綴(とある私立大学職員)

思うことを書いていこうと思います。主として大学関連の話題。ただし、それ以外も(とある私立大学職員)

人に伝えること

 最近常々思っていること。

 仕事のやり方なんかは比較的簡単に伝わる。しかし、その背景にある考え方や想いというのはなかなか伝え方が難しい。

 

 そういったことを伝える時には、少々くさいが"想いを言葉にのせること"を考えて話すようにしている。例えば、教育に対する教員の想い、期待以上のものを出すというようなプライド、常に良い方に変えられないかと考える事など。

 押し付けがましくなってはいけないし、それを強制したくはないが、何かを受け取ってもらえるように。

 

 私の想いが伝わっているかはわからないが、少しでも伝わるように、これからも大事なことを伝える際には想いを言葉にのせることを心がけたい。

学生寮の必要性

 各大学、寮を持っているところも多いと思う。私が所属する大学も持っている。

 
 ある大学では、外国人留学生と学生を住まわせることで、国際化を図ろうなんて話も聞く。しかし、日本全体で賃貸が余っていると言われるなか、大学が寮を維持していく意味はあるのだろうか。
 
 多くの大学寮は大学から近いという意味ではよいし、寮によっては食事も出て健康管理もでき、父母にとっても安心感がある。しかし近年は寮を希望する学生は少ない。
 
 例えば、URなどと提携し、団地の一部を寮のようなかたちで借りるようにはできないかと思う。団地も入居者が減る傾向にあるが、夏祭りや餅つきなど、古き良き日本の文化が残っている。こうした文化を体験したいと思う外国人留学生は多いのではないかと思うのだ。留学生だけではなく、一般の学生にも貸し出しつつできればいい。
 
 こういうのを思う中で、福井大学のたすかりすを思い出した。

 たすかりす

 

 ある一つの策だけでなく、様々な策を用意しつつ、それが組み合わさって良い方向にすすめばいいなと思う。複数の選択肢があることは学生にとってもよいだろう。

 ※ ただし、色々と手を出し過ぎないことは大事だ。

 

 たすかりすのような場合、大学、そして大学周辺が一つの町であるかのように、一体的に発展していくといいなと思う。

 

 もちろん、学生のトラブル(深夜にうるさい)、留学生のトラブル(ゴミ出しを守らない、騒ぐ)等々あろうが、それは郷に入っては郷に従えで、互いに譲れるところは譲りつつ。

 最近高齢者からの苦情が多いというが、高齢者は「いつか来た道」若い人たちは「いつか行く道」と思えないかな。(子ども時代は誰しも通った道で、高齢者になるのはみんないつか行く道でという意味)

趣味の一つ

 教育関連にどっぷり浸かっているとまでは言えないものの、それなりにプライベートでも学んでいる。そんな中で、リラックスの一つとなっているのがマンガだ。

 

 全く興味のない人もいるかもしれないが、もし時間がある人は下記のマンガを読むことをおすすめする。

 

ANGEL VOICE 1 (少年チャンピオン・コミックス) | 古谷野 孝雄 | 本 | Amazon.co.jp

 

 サッカーマンガだが、単純なサッカーマンガではない。

 最終まで40巻となかなか長いが、その間に何度泣いたかわからない。

 

 現実では難しいかもしれないが、「頑張っている者は報われるべきだ」とか「必ず誰かが見てくれている」とか「一つのことを一生懸命にする、全力を尽くすことで見えてくるものがある」などなど、気付かされることが多い。

 

 私の場合、発想が変わっていたり、正しいと思うことは言うということを心情としているので、自大学で少々異端児扱いされている部分がある。それでも自分が尊敬する人たち、理解してくれる仲間に、君は間違っていないと言われ、支えられてきた。

 

 体裁を気にすることよりも、自分が正しいと思うことをやり通すこと、正しいと思うことを言い続けること、そういうことをこのマンガで再認識させてもらった気がする。

 

 読んだことがない方にはぜひおすすめしたい。

それがその時のベスト

 かなり前、あの時の決断が正しかったのかどうかと悩んでいた後輩に、その時はそれがベストだと判断したわけで、何度戻ったとしても同じ決断をするはず。だから、気にすることはないという話をした。

 そしたら、過去の話をした際に、見事にそれを返された(笑)

 その子の中に残っていたんだというのと、変な言い方だけども、その子の中に自分がいた(自分を見た)気がして嬉しかった。

 言葉の力というタイトルでかつてブログを書いたが、一部でもそういう残ることを言えたんだなとしみじみと思う。

仕事とプライベート

 仕事とプライベートは別。

 

 先日、普段の仕事の姿を知っていても、プライベートは別だからわからないという話をされた。大して仲の良い人ではなかったりすればなんとも思わなかったのだが、自分が信頼をし、素を見せられている、そんな関係性だと思っていた人からの言葉だったために、少々心を傷めた。

 

 私自身、仕事とプライベートの姿が別であるということに異論はない。しかし、その人の所作や振る舞いにその人の本質が自然と出るように、仕事にもその人本来の姿があるのではないかと思っている。

 同じ仕事をするのでも、人によってやり方(仕事そのもののやり方、他への配慮の仕方、根回し等)は違う。だからこそ、そこにその人の本質もあるのではないかと思う。実際私の場合、プライベートな付き合いももちろんそうだが、それとは別に仕事を通して信頼できる人なのかどうかというのはわかると思っている。仕事とプライベートをきっちりと分ける人もいるが。

 

 私自身、仕事とプライベートを分けられている人間ではない。プライベートが仕事に、仕事がプライベートに影響している。それは、仕事をしだしてからのプロ意識であったり、知識の必要性であったり、学びの楽しさだったりを知ったからで、仕事とプライベートの境は曖昧だ。朝起きてはニュースを見ながら高等教育関連のニュースや職員ブロガーさん方のブログをネットサーフィンするし、仕事が終わってからも同様だ。それに加えて休日はそういった書籍なんかも読んだり、余裕があれば文科省の答申なんかも読んだりする。

 ※ もちろんそれ以外の趣味にも時間は使ってます。

 

 休日は、プライベートなのか仕事なのかわからないような、発表や外の研修会への参加なんかもしていて、このあたりも曖昧な部分だろう。仕事に備えて普段から色んなことにアンテナを張っている(つもり)なので、分けろと言っても分けられないのが本音だ。

 

 それってどうなの?っていう人もいるだろうが、そういう場での学びや気付き、そこで出会える人にも非常に大きな影響を受けてきた。自大学ではたまに変わってるとすら言われることがある私も、外では認めてくれる人、仲間がいた。

 そういう人たちのようになりたいと思うと、私の場合はプライベートの時間を削って学ぶしかなかった。

 

 ただ、それに対しての後悔はない。学ぶうちに楽しさを覚え、教育に関われていることを幸せに思えた。恐らく私は知識欲が大きいのだろう。未知のこと、自分が気付かなかったことを知ることに非常に大きな喜びを覚える。

  私が影響を受けた職員の一人に松宮愼二氏がいるが、彼もまた以下のように述べている。

shinnji28.hatenablog.com

 

 仕事とプライベート、分けられる人とそうではない人がいて、自分は後者だったのだろうと思う。

 

 なんてことを思いつつも、先日私に話をした方は、本当はきっとそういう意味ではなく、仕事では壁がある。普段の自分が出せているわけではないし、完全な素ではないからわからないと言いたかったんだろうなと思いつつも、一緒に色んなことをこなしてきたなかで、私という人をわかってくれているものと思っていたから、なんとなく自分を全否定された気がして結構なショックを受けた。

 

 この砕け散った信頼というべきか想いというべきかわからないものを、なんとかかんとか自分の中で消化させねばと思う。

言葉の力

 私は他の影響を受けやすい。特に人の言葉に。

 今まで言われた言葉や聞いた言葉で特に印象に残っているのは次の言葉だ。

 「知った時、わかった時が自分にとっての最速。だから、もっと前に知っていればとか、気付いていればと思うよりも、そこが最速なのだと受け入れる。そこからどう行動するかが大事。」(とある他大学の職員の方から言われた言葉)

 

 この言葉を聞いてから、仕事でもプライベートでも、もっと早く気付いていればと思うよりも、それが自分には最速だったのだと思うようになった。

 ※ 仕事の場合は、もっと早く気付けるよう行動していたか、知ろうとしていたかを考えはするが。

 

 上記以外にも、様々な言葉を色んな人や物(本など)からいただいて、今の自分ができている。

 

 そう思うのと同時に、自分は人に何か残せているのだろうかと思い返す。自分の後輩、同僚、先輩、その他関係する人、そういった人たちに自分は何か残せているだろうか。と。

 

 一番は前の部署の後輩に対して。

 厳しく指導したため、泣かせたことすらある。期待もあったし、仕事に対する心構えだったり、教育に対する想いだったりというものを継承してほしかったこともあった。それを伝える資格が自分にあったかどうかはわからないが。

 ただ、その職場を出るときには、自信を持って自分以上の職員を残せていけたと言えたし、それを誇りに思えた(実際本人にはその旨伝えた)。ちゃんと伝わっているとは思うが、その後輩にはそういったものを残せただろうか。

 

 私は様々なことに対して、厳しい指摘をすることがある。他大学の仲が良い職員からも、たまに棘がありすぎという突っ込みを受けることすらもある。

 

 言うべきこと、伝えるべきことは伝えるべきだと思っているし、それが健全だとも思う。しかし、厳しいだけじゃなく、人を動かす言葉を、また人に残る言葉で伝えられたらなとも最近思うのだ。

 

 そういう人になれたらなと思うが、まだまだ道は遠い・・・。